薄暗い雲に覆われた、冬の空。
陰鬱な印象を受けるのになぜかそれは優しげに見えて、鈴花は目を細めた。
そこから、ちらりと何かが降ってきた。
広げた掌にふんわりと落ち、儚く消えていくもの。
それは――。
「……雪……?」
掌に残るのは、淡く消えたその残骸たる水の姿のみ。
鈴花は、もう一度空を見上げた。
優美な水鳥がその羽根を撒き散らしたかの如く、鈍色の空は白い雪で溢れていた。
「うわぁ!」
感嘆の声を上げて、鈴花は手を伸ばす。
けれど、数多ある雪のどれもが彼女の手をすり抜けて落ちてしまう。先程は、望まずともその手の中に落ちてきたというのに。
むっと顔を曇らせ、鈴花は手を振り回した。数打ちゃ当たる。そんな言葉がぴったりと当てはまる行動だった。
ぶんぶんと勢いよく跳ね回る腕。しかし、その風圧で雪は流れに乗って逃げてしまうだけ。
下手な鉄砲では、いくら数を打ってもその心構えがなければ通用しないことなど、経験からわかっている筈なのに。
今の彼女には、それすら頭になかった。
――平和になり、戦場の感覚はすでに過去のものとなってきているのだった。
「……何をしてる」
背後から声を掛けられた時、すでに鈴花の息はかなり上がっていた。
自棄になって振り向くと、そこには無表情の中にも呆れた顔を滲ませた斎藤の姿があった。
「……さい、と、う……さん……」
ぜえぜえという呼吸音の中で呟かれた自分の名に、斎藤は苦笑した。
いくら平和になったとはいえ、毎日の鍛錬は欠かさない。鍛えられた鈴花がこうも息を乱すのは、余程激しく動いたのだろう。
くすりと小さく笑い、斎藤は鈴花の側に歩み寄った。
「何を、してたんだ?」
言い方を変え、再度問う。
すると、鈴花は自分の今までの行動をようやく思い出したのか、わずかに俯いてぼそぼそと言った。
雪を捕まえたかったのだ、と。
「どれだけ外にいたんだ?頬が真っ赤になっている」
「う……。だって……」
もごもごと言い訳をする鈴花を、斎藤はそっと抱き寄せた。
外は暗く、辺りには人影も見えない。斎藤は人の目など気にはしていなかったが、幾度となく鈴花に時と場所を考えてくれと泣きつかれた経験から、その辺りは気にかけるように努力していた。
今は、抱きしめても大丈夫な「時と場所」だと判断する。
誰もいない刻限で、垣根が低いとはいえ自宅の庭。妻となる女性を抱きしめて、悪いわけがない。
「斎藤さん……」
恥ずかしそうに呟く鈴花の声も、嫌がっている響きはない。だが、斎藤は眉を顰めた。
「おまえは、いつまで俺をそう呼ぶつもりだ」
「……あ……」
祝言はまだ挙げていない。けれど、そろそろ名前で呼んでくれてもよいのではないか。
何度もそう言ってきた。加えて、斎藤はもう「斎藤」ですらないのだ。
憮然と黙り込み、抱きしめる腕の力を強くする彼に、鈴花は慌てた。
「だ、だって、なかなかとれないんですよ。長年親しんできた習慣というか……」
もごもごと言い訳する鈴花を尚も抱きしめる。
外気に晒された素肌は、動いていた為かうっすらと汗ばんでいる。
しかし、身にまとう着物は雪を含んで少しずつ湿り気を帯びてきていた。このままでは、風邪をひきかねない。
斎藤は、小さな溜息をついた。
「そ、そんな溜息つかなくてもいいじゃないですか。そりゃ、私だって悪いとは思ってますよ。でも……」
抱きしめられた形の鈴花には、斎藤の表情は見えない。相変わらず無口な彼の考えていることは、わかりにくかった。表情が見えていないのならなおさら。
今も溜息の意味を取り違えて、必死で言い訳を並べている。
そんな彼女が愛しくてならなかった。
「もういい。おいおい慣れていけば良いことだ」
「……でも……」
「それよりも、中に入るぞ。着物が濡れてきている」
腕の力を緩めずにそう言うと、腕の中の鈴花が不満げな声を漏らした。
「もうちょっと、雪が見たいです……」
「風邪をひくぞ」
「……もうちょっとだけ……」
食い下がる鈴花に、斎藤はまた溜息をついた。こんな風に言われたら、負けてしまうのはいつも彼の方なのだ。
縁側で見るのならば、という条件付きで二人は小さな家の中へ入っていった。
雪はまだまだ降り続く。舞い散るようだったものが、今は粒を大きくししんしんと降ってきていた。
家に入る二人を隠すかのように、降っていた。
「……で、雪の何がそんなに面白かったんだ。初めて見るわけでもないだろうに」
室内に入り、温かな茶をすする鈴花を見ながら斎藤は言った。
今すぐにでも縁側に出そうな鈴花を押しとどめ、まずは体を温めなければと更に条件をつけたのだ。
濡れた着物を着替えた鈴花は、肩を竦めて彼の言葉に頷く。
雪を見るのが初めてなわけではない。小さい頃から雪を見てきたし、京にいる頃も見た。
「それでも、初雪は嬉しいものなんです……」
鈴花は、頬を膨らませて立ち上がった。
茶も飲んだ。濡れた着物も着替えた。その上、何も言われぬ前にと綿入れ半纏まで羽織っている。これで、雪を見ても大丈夫なはずだ。
斎藤も引きとめようとはせず、溜息をついて後に続く。
縁側は、しんと冷えていた。
身を切るような寒さまではいかないものの、やはり寒い。それでも、がたがたと雨戸を開けて冷えた空気を取り込むのだから、寒くても文句は言えないだろう。
雨戸を一つ分開けたところで、鈴花は腰を下ろした。そのすぐ横に、斎藤が座る。
暗い夜空からは、先ほどよりも多くの雪が降ってきていた。
「…よく降りますね」
「そうだな」
「明日には積もってるかなぁ」
ふふ、と笑う鈴花を斎藤は後ろから抱きしめた。
ふんわりとした匂いが立ち上り、雪をも溶かしそうなほど暖かくなる。
鈴花も抵抗せず、その腕の中に納まっていた。
温かな腕の中で見る、雪景色。
初めて人の温もりの中で見たそれは、今まで見たどんな雪よりもきらきらと輝いて見えた。
「……雪、か」
ぼそりと、斎藤が呟いた。
鈴花に聞かせるわけではなさそうなその言葉は、白い息とともに雪の中に紛れていく。
「斎藤さんは、雪は好きですか?」
「別に、好きでも嫌いでもない。ただ、雪の日の思い出はたくさんある」
言葉の中に寂しそうな響きを感じ取り、鈴花は黙り込んだ。
あの日も、こんな雪の夜だった。
御陵衛士として別れた斎藤が、新選組に帰還を果たした日。
雪を払う彼の姿がひどく緊迫したもので、鈴花は声を掛けるのを忘れた。
帰りたくなかったわけではない。斎藤はそう言ったが、御陵衛士を憎からず思っていることはその目を見れば明らかだった。
そして、その行く末を心配していたことも。
更に、あの日とて雪が降っていた。
油小路で、御陵衛士達と対峙した日。
理不尽な思いを抱き、それでも戦わなければならなかったあの日。
斎藤は、戦闘の場には出なかったが、どんな思いで降りしきる雪を見つめていたのだろう。
かつての仲間の命が消え行く、こんな夜に。
鈴花は、ぎゅっと拳を握りこんだ。
雪の日の思い出は、愉快なものばかりではない。
戦場の記憶は数多くあれど、何かを見て思い出すことは少ない。けれど、雪だけは別だった。
「どうした?」
黙りこんだ鈴花を心配して、斎藤が顔を覗き込んだ。
何でもないというように頭を振るが、その表情は沈んだもの。
彼女の表情を見て、何かを察した斎藤は苦笑を漏らした。
くしゃくしゃと鈴花の髪をかき乱し、改めて抱きしめる。
顔を上げれば、白い雪。
僅かな光に照らされた白い羽根は、柔らかに落ちていっていた。
「……俺の生まれた日も、こんな雪の日だったようだ」
「……え……?」
「寒い日のしかも元旦。母親は迷惑だったかもしれないな」
小さく笑う気配が、鈴花の耳をくすぐった。
斎藤の昔話を聞くのは初めてだった。元旦に生まれたということすら初耳だ。
沈んだ気持ちがほんの少し軽くなり、鈴花は顔を上げた。
その目は彼と同じものを映す。
はらはらと舞い落ちる雪の欠片。
目を閉じれば、その情景が浮かんでくるようだった。
産声を上げる小さな命。それを祝福するように空から溢れる白い羽根。
「きっと、斎藤さんのお母様も嬉しかったと思いますよ」
雪の日に生まれた無垢な魂。
鈴花にはまだ経験のないことだが、本能でその幸せを感じていた。
「赤ちゃんの頃の斎藤さん、かわいかっただろうなぁ……」
ふわりと笑えば、背後から抱きしめる腕に力が入った。
鈴花の頭に顔を乗せ、斎藤はゆっくりと息を吐いた。
白く染まった空気が、ゆっくりと流れていく。
「ならば、生まれてくる子どもは俺に似た子を作ろう」
「え?」
「いや、だが子どもというのはかわいくなくてはいかんだろう。やはり、おまえに似たほうが良いだろうか」
「は?」
「いや、しかし。おまえがかわいがるのならば、俺似でもいいだろう。折角だ、おまえ似と俺似のこどもを何人も作っていこう」
「え、ちょ、斎藤さん…!」
言いながら、ゆっくりと顔を寄せる斎藤に慌てながらも、鈴花は体から力を抜いていった。
ひんやりとした感触の唇は、幾度も合わせるたびに熱くなっていく。
冷えた空気を暖めながら、二人の吐息は次第に甘い色に染まった。
「……雪の日でも、雨の日でも。たとえ雹が降っていても、楽しい思い出になるように過ごしていこう」
鈴花を抱き上げながら、その耳元でそっと囁いた。
祝言を挙げるまで、あと少し。
二人の命を継ぐ魂が宿るのは、それのもう少し後。
今宵は、静かに雪が降る。
二人を包み込むように。
今宵、静かに