Kiss me
「あー終わらねぇ……」
ぐったりと机に頭をつけて仲謀がぼやく。
金色の派手な頭のすぐ横には、山積みになった竹簡が所狭しと並べられていた。
「もう嫌だ。こんな大量なの終わるわけがねぇ」
「そんなこと言ってないで頑張らないと。やらなきゃいつまでも残ったままなんだよ?」
花が笑いながらそう言うと、仲謀は伏せていた顔を上げて恨めしそうに睨んだ。
いつもこういった事務的な仕事をしてくれている子敬は、使者として玄徳の下へと旅立っている。子敬が担う急ぎの仕事は、仲謀が代理で行うことになったのだが、その量は半端なものではなかった。
あの穏やかでのんびりしているように見える子敬は、実は非常に仕事が出来る人物だということを、花は初めて知ったのだった。
「簡単に言うな。こんだけしようと思ったらどれだけ時間があっても足りやしねぇ。お前、代わりにやってくれんのかよ」
「出来るもんなら手伝ってあげたいけどさ、私まだここの言葉があまり読めないんだもん」
そう言いながら花は机の上の隙間にそっとお茶を置いた。
手伝いたいという気持ちに嘘はない。けれど日常的な文字が読めるようになってきたとはいえ、国家の大事を理解出来るほどの頭は持ち合わせてはいないのだ。
「……わかってるよ。言ってみただけだ」
憮然とした表情のまま、仲謀はがりがりと頭をかいた。
その様子がいつもの偉そうな彼の姿とは違っていて、花は思わずためいきをついた。
「やっぱり、使者は私が行けば良かったね。そしたら仲謀もこんなに忙しくならなかったのに」
「それは却下だ」
最初は、花が使者に立つことも検討されていた。元々玄徳軍にいた花は適任と言えたし、反対に花に出来る仕事はそれぐらいしかない。
けれど仲謀は今のように、あっさりとその案を却下したのだった。
「何でよ。そりゃ子敬さんよりは役に立たないけど、今回のは難しい仕事じゃないって聞いてたし、玄徳さんとは今のところ友好的なんだから大丈夫だと思うのに」
「何でも、だ。おまえが行くのは俺が許可しねぇ」
「だから、何で」
「……」
これは使者が子敬に決まったときから繰り返された攻防だった。
最後は必ず仲謀が口を噤んで終わってしまうので、花は未だに自分が使者に認められない理由がわからなかった。――勿論、彼女以外の人間にはその理由は簡単すぎるものではあったのだが。
「……じゃあ、仲謀が仕事頑張るしかないんじゃないの?」
意地悪くそう言うと、観念したように仲謀が机から身を起こした。
首をまわし体をほぐしてから、机に置かれた茶を一気に飲み干す姿を見て、花はようやく彼がやる気を出した事を知りほっと胸を撫で下ろした。
邪魔をしないように、そっと扉の方へ近づくと不意に後ろから声がかかった。
「花、お前にも手伝える事があったぞ」
「え?」
振り返った花の目に、仲謀がにやりと唇の端を吊り上げて笑う姿が映った。
不吉なその笑い方に思わず背筋を寒くすると、やはり彼はとんでもないことを言い出した。
「俺が今日中にこの仕事を片付けたら、今日はお前から口づけしろ」
「……は? くち、づけ……ええええっ! そ、そんな、無理だよっ」
「褒美だ、褒美。折角俺様が頑張ってるんだ、それぐらいしてくれてもいいだろ」
「褒美って、それは仲謀の仕事でしょ? 何で私がご褒美あげなきゃいけないのよ」
顔を赤くして抗議する花に、仲謀は約束だと一方的に言い放ち再び机に向かった。
それ以上は花が何を言っても耳には入らないようで、先程までのだらだらとした態度は何だったのだと思うぐらい真剣な眼差しで仕事に取り組み始めた。
言いたいことは山のようにあり、要求されている内容は承諾しかねるものではあったが、それでもこれ以上仲謀の仕事の邪魔をするわけにはいかず、花は仕方なく彼の部屋を後にしたのだった。
廊下に出ると、日はもう落ちかけていて辺りにはうっすらと暗闇が忍び込んでいた。
正確な時計のないこの世界で、仲謀の言う「今日」がどの時刻を指すのかはわからなかったが、この分だと深夜を過ぎた頃でもあの膨大な量の仕事が終わっているとは思えない。
「大丈夫……だよね」
多少の不安を覚えつつも、花はそう結論づけて自室へと戻るのだった。
◇
こんこん、と扉が叩かれる。
日は完全に落ち、寝る準備を整えていた花はその音に嫌な胸騒ぎを覚えながら扉を見た。
「……まさか」
「まさかって何だよ」
小さな呟きを聞き逃さず扉は音を立てずに開き、満面の笑みを浮かべた仲謀が部屋の中へと滑り込んできた。
「お、わった……の?」
「終わらせた。完璧だ。何なら見に行くか?」
胸を張る仲謀に、花はちいさく頭を振った。見に行かなくても、仲謀が仕事に手を抜くとは思っていない。
しかし、あの量をこの短時間で仕上げてしまったのには驚きを隠せなかった。いくらここに正確な時計がないといっても、今が元の世界でいうところの「日付を越えた時間」ではないことぐらいはわかる。
「約束だろ?」
妙に艶のある声を出す仲謀が、来た時と同じように静かに扉を閉めた。
蝋燭の薄い明かりしかない室内で、その表情はいつもよりも大人びて見える。
花は知らず掌を握り締めた。
仲謀と恋仲になって随分と立ち、キスどころかそれ以上のことも何度もしてきたはずなのに、何故ここまで緊張しないといけないのか。
「や、約束、した覚え、ないもん……」
強がりは細い声となって消えていく。
その間にも、仲謀は一歩一歩距離を詰めてきていた。
彼の大きな手が花の顔に触れると、花は自分の心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。
骨ばった手が、花の柔らかな頬を包む。それが冷たいような気がするのは、自分の手が冷たいからだろうか。
花はそっと視線を上げて仲謀の顔を見る。暗くてもわかるくらい近くにある顔は、今まで見てきた彼よりも妙に色気があった。
形の良い唇は笑みの形を浮かべていて、そこに自分から口づけをするのだと思うと、恥ずかしくてたまらない。
「……目、閉じて……?」
小さく告げると、至近距離にある彼のまつげがゆっくりと下がっていくのがわかった。
花は覚悟を決め、ゆっくりと彼の顔に近づいていく。
「花……」
そこで、はっと気がついた。何も唇にしろ、と言われたわけではなくただ単に「口づけ」と言われたのだ。
それならば色々と考え込んでしまう唇よりも、簡単に済ませられるほかの場所の方が恥ずかしくないに決まっている。
唇まであと数ミリ、吐息が触れる位置で動きを止めて、花は他の場所を探した。
「……花?」
頬が良いだろうか、額が良いだろうか。それとも耳とかなら唇が触れる場所が少なくて良いかもしれない。
暗闇で見えにくいので、何度も近づき場所を確認する。
「……っ、お、い……っ」
そして、ようやく耳にしようと心に決めたその時――。
「――っ! も、もういいっ!」
「え?」
両肩を掴まれ、勢いよく花の体が仲謀から引き離された。
「お、お前からはなしだ!」
「は? え、ちょっと! 折角心決めたのに、何で?」
「何でもだ! ああもう! 顔見るんじゃねぇよっ」
「わぷっ!」
今度は頭を掴まれ、仲謀の意外に広い胸へと顔を押し付けられる。
そこからは早いリズムの鼓動が聞こえ、彼が自分と同じように恥ずかしがっているという事を花に教えていた。
自分からしろと言ったのにどういうことだ、と理不尽に思わないでもないが、それでも妙に色っぽい仲謀よりもこちらの方が花の知っている彼らしいので、思わずほっと胸を撫で下ろした。
その彼女の耳元に、仲謀の微かな声が届く。
「……かわいすぎんだよ、お前は」
「え、何、仲謀、聞こえない」
「聞かなくていいっ」
「やんっ!」
◇
「……やれば出来るんじゃないですか。これからはもっと頑張ってもらいましょうね」
翌朝提出された仕事は、仲謀の言葉どおり完璧なものだった。
それからというもの、今までしなくても良かった細かい仕事までもが仲謀にまわされることとなったのは、当然のことと言えるだろう。
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仕事でハイになっていて普段なら言えないことを思いつき、でも土壇場で我にかえる残念王子。そんな彼が大好きです。