「雨宿り」
「あーあ、降ってきちゃった……」
鈴花は、濡れた髪をかきあげながら空を見上げた。
鈍色の空からは無数の雨粒が降り落ちてきている。朝からどんよりとした雲行きだったのに加え、この時期は毎日雨が降るのが当たり前。傘を持っていかなかったのは鈴花の落ち度だった。
「うっかりしてたんだよね……」
滴り落ちる雫を指で拭い、悔しそうに呟いた。
今日は久しぶりの非番。何をしようとは決めていなかったが、屯所にじっとしているのは勿体無かった。
――例え天気が悪かったとしても。
甘味所でぜんざいを食べ、小間物屋で手ぬぐいを買い、さぁ次は紙問屋へ行こうと意気揚々と店を出たところで急に雨が降ってきた。
朝から今にも降りそうな雲ゆきだったのが、満を持して降りだしたといったところだろうか。
走って屯所まで帰れば何とかなるだろうという安易な考えは、すぐに捨てた。それほど、激しい降り方だった。
咄嗟に雨宿りをさせてもらった空家の軒下で、鈴花はいつ止むとも知れぬ雨を見上げた。
落ちてくる雨粒は少しずつ早さを増し、目の前の景色は水の紗で隔てられてしまっている。一寸先も見えないこの状況では、雨宿りをする他に方法はない。
この雨で、道を行く人間もいなくなってしまった。この季節の雨がすぐに止むことはないだろうが、せめて小康状態になるまでは雨宿りをしようと考える人間がほとんどなのだろう。
激しく降る雨の音以外は何も聞こえない。鈴花はそっと目を閉じてその音に耳を傾けた。
強い雨音も、慣れてくれば心地よい音に変わってくる。一定の間隔で鳴り続けるそれは、子守唄にも似て鈴花の意識を和らげていった。
「……あれ?」
しばらくして、その雨音に変化が現れた。
止む気配はない。雨の勢いは変わらず強いが、子守唄のような雨の音の他に何か違うものが混じっているのが感じられる。
それは少しずつ近づいて来るようで、鈴花は思わず腰のものに手をかけ水に遮られた先をじっと見据えた。
ぴちゃん、ぴちゃん。
水溜りを跳ねるその音は、確かに人の足音。それが、確実に自分に向かって歩いてきている。
雨の向こうにその姿がぼんやりと見えた時、鈴花は身を低くした。
が。
「……さい、とうさん……?」
現れたのは、見慣れた人だった。
しかし、その人物は見慣れていてもその姿は見たことがないぐらいひどいもの。
鈴花は思わず目を見張った。
「ちょ、斎藤さん、こんな雨の中何してたんですか?」
土砂降りの雨の中、斎藤は傘もささずに悠長に歩いてきていたのだった。
鈴花はその腕を取り急いで自分のいる軒下へと引き入れ、濡れた体を手ぬぐいで拭きはじめた。
だが、そんな事は無駄でしかない。
傘をさしていても濡れてしまうこの雨の中、なにも持たずに歩いてきたのだから、その体は頭の先から足の先までぐっしょりと濡れてしまっていた。
手ぬぐいで拭いた所で足りるものではない。
「……こんなに降ってくるとは思わなかった」
ぼそりと呟かれた言葉に、鈴花は盛大に溜息をついた。
「降ってくるとは思わなくても、降ってきたならどこかで雨宿りしてくださいよ」
文句を言いつつも、鈴花は斎藤の袖をしぼる。雑巾絞りさながらにぼたぼたと水が落ちていき、幾分袖は軽くなったような気がした。
着物はもう拭いても仕方がないと諦め、今度は頭に手を伸ばす。
「斎藤さん、ちょっと屈んでください」
言われた通りにしゃがみ込む斎藤に、鈴花はまた一つ溜息をついた。
長い前髪は絶えず水が滴り落ち、艶やかな黒髪は濡れすぎていつもより色が濃い。
その髪の毛を丁寧に手ぬぐいで拭う最中、斎藤はぴくりとも動かなかった。
「……斎藤さん、何でこんな雨の中で歩いてたんですか?」
「……雨が降りそうだったからだ」
「は?」
「雨が降りそうだったのに、おまえが出かけたまま帰らないから……」
手ぬぐいを動かす手を止め、鈴花は今の言葉を反芻した。
雨がふりそうだったのに、出かけたまま帰らないから。その言葉に続くものは。
「……もしかして、私が帰らないから迎えに来てくれたんですか……?」
「…………」
斎藤は鈴花の問いに答えず、彼女の手にあった手ぬぐいを取り自分で拭き始めた。
乱暴に頭をこするその仕草が、無言の肯定のようで鈴花は思わず小さく笑ってしまった。
「それなら、傘も持って来てくれれば良かったのに」
「……雨が降り出してから気がついた……」
斎藤の言葉に、鈴花は今度こそ大きな声で笑い出した。
激しく降る雨の中、彼女の笑い声は響かない。大きな音はすべて水が吸い取り、斎藤のおかした失敗も鈴花の遠慮のない声も、雨の中へ流れて消えていく。
いつまでたっても止みそうにない雨を困っていた気持ちは、とうにどこかへ飛んでいっていた。斎藤の少し抜けた思いやりと、久しぶりに心の底から笑った充実感が、雨の空間を楽しいものへと変えた。
鈴花は、憮然とした顔で頭を拭き続ける斎藤を眺める。
京に来た当初、鈴花はよく道に迷った。京の道は碁盤の目だから迷わないと聞いていたが、彼女にとってみれば、同じような道がいくつもある迷路のようなものだった。慣れた今でこそ方向さえ掴めればどうにかなると思えるようになったが、それでもまだ不安はたくさんある。
斎藤は、そんな鈴花の方向音痴を覚えていたのだろう。雨が降り視界が悪くなれば、知っている道も分かりにくくなる、と。
その優しい気持ちに、鈴花の胸は温かくなった。
「それ、もう濡れちゃってて拭いても意味ないですよね」
笑いすぎたことを反省しつつ、鈴花は懐から油紙に包まれた手ぬぐいを取り出した。
今日、小間物屋で買ったばかりの手ぬぐいだった。使うのが目的ではない少女らしい優しい模様のついたその手ぬぐいは、先ほどまで使っていたものよりも格段に拭きづらい。けれど、水が滴るほど濡れてしまったものよりはましだろう。
「いいのか。それは買ったばかりだろう」
「いいんです。斎藤さんが、私を探しに来てくれたお礼です」
鈴花はそう言いながら、見た目よりも柔らかい斎藤の髪を丁寧に拭いていった。
「風邪ひいちゃいますね」
「大丈夫だ。そんな体じゃない」
「寒くなったら言ってくださいね」
その言葉に、斎藤が眉を上げる。鈴花は、自分の言ったことの意味を理解していない。
きょとんと首を傾げるその表情に、斎藤はちいさく溜息をついた。
「……早く上がるといいですね」
「たまには、こうやって雨を眺めるのもいい」
二人は揃って、空を見上げた。
まだ雨は激しく降り続いている。視界は暗く、周囲は水の紗で覆われてまるでそこは二人しか存在しない世界のよう。
息遣いさえ聞こえてきそうな空間の中で、鈴花は斎藤の髪の毛を優しく拭き続けた。
「迎えに来てくれて、ありがとうございます」
鈴花の小さな声も、雨の中へ紛れていった。
手ぬぐいで覆われた斎藤に、この声は聞こえないだろう。
けれど。
頭を拭く鈴花の手に、大きな冷たいてがそっと重ねられた。
たとえ声は聞こえなくても、想いは伝わるのかもしれない。
降り続ける雨が、二人の距離をそっと縮めていった。
雨は、まだ止まない。
モドル