湯当たり注意報









「駄目だ!」

 稽古場に鋭い怒声が飛ぶ。
 葵は思わず首を竦めたが、他の面々は慣れてしまったのかやれやれといったように溜息をつくだけだった。
 恐る恐る声の方を見れば、淋が険しい顔をして大股でやってくるのが見える。いつもより三割り増しで眉間の皺が増えているのを見れば、彼がどれほど怒っているのかがわかるだろう。

「おまえ、いつになったらわかるんだ! そんな歩き方でどうする、そんな仕草でどうする! 看板女優の自覚がないのか? ないなら今すぐやめてしまえ!」
「う、ご、ごめん……」
「ごめんじゃないだろ! 何度言ったらわかるんだ。台詞まわしは回数こなせば入ってくるけど、仕草は常に気をつけろって言ってるだろう!」
「ご、ごめ……」

 ぽんぽんと飛ぶ叱責は、いつもよりも厳しい。それもそのはずで、葵がこうやって淋に怒られるのは何も今が初めてなわけではなかった。
 仕草を気をつけろという言葉は、もう淋の口癖になりつつあり、そうなってしまったのはいつまでたっても葵自身が粗雑な仕草になりがちだからだ。

「まあまあ、それぐらいにしてやんなよ。葵も今日は稽古し通しで疲れてんだからさ」
「…………」

 座長たる剣助が止めに入り、ようやく淋も口を噤んだ。しかしその表情は納得したわけではなく、ただこれ以上言えば稽古場の雰囲気が悪くなるだけだということを悟った為のように見えた。
 その証拠に、彼はそのままくるりと背を向け無言のまま出口へと向かってしまう。
 言いたいことや謝りたいことは山ほどあるが、今の淋に何を言っても仕方がない。ただ自分が不甲斐なくて、葵はしゅんと項垂れた。
 その頭に優しい重みが乗り、剣助が頭を撫でてくれるのがわかったが、今はそれに甘えるわけにはいかない。
 この時代に残る、葵座の一員として生きていくことを決めたのは、ほんの数日前のことなのだから。
 零れそうになる涙は、怒られたことが悲しいのではなく、ただただ自分が情けない為だった。
 
「……練習、しよ……」

 目の端を袖口で拭い、取り落とした扇を拾う。
 元の世では諦めた日本舞踊は、明治に来てからは毎日のように叩き込まれた。日舞で培われる女らしい仕草は今の自分に必要不可欠であることを理解しているからか昔よりは身についてきているが、それでも苦手なことには変わりない。
 楽を奏でてくれていた淋が出て行ってしまったので、頭の中で音を再現しながら葵は教え込まれた動きを繰り返す。
 ちらりと横目で入り口を見たが、そこにはもう淋の姿はどこにも見えなかった。



 ぶくぶくと口の上まで湯に浸かりながら、葵は今日一日を振り返っていた。
 風呂場での考え事は、最近では日常茶飯事になり始めている。
 淋が葵に厳しくするのは、現代に帰らず淋の隣にいることを決め葵座に本気で残ろうと決心した自分の為なのだとよくわかっている。
 じわりと目の端に浮かんだ涙を掌で拭いながら、葵は頭を振った。
 
「……やっぱり、ちゃんと謝らないとね。あと、もっと練習して……ううん、練習じゃなくてちゃんと女らしい仕草を意識しないと駄目なんだ」
「よくわかってるじゃないか」
「!」

 風呂場に第三者の声が響き、葵は思わず体を固くした。
 声の方を向くと、淋が湯気の向こうから顔を出すのが見え、慌てて顔を背ける。
 今まで、淋の入浴中を葵が覗いてしまったことは多々あったが、その反対は皆無だった。しかも今の淋は声をかけながら入ってきたのだから、葵がいるのをわかっていて入ったということになる。
 頭に疑問符をばらまいていると、湯の中に淋が入ってきた気配がし、葵の体はさらに固くなる。
 前に一緒に風呂に入ったことはあったが、あれは葵が覗いて入り込んだものだった。それを反対にされる立場になると、こうも心が騒ぐものだとは思わなかった。
 
「……悪かったな、葵」
「そ、そんな淋が謝ることないよ、私が悪いんだし」
「まあそうなんだけどな。俺も言いすぎた」

 ぽん、と頭の上に手が乗せられる。濡れた手で撫でられると髪の毛が軋んでしまうが、それでも嫌な気はしなかった。
 淋らしからぬ仕草に思わず顔を上げると、間近に迫った彼の顔が急に赤く染まった。

「……おまえ、他の男に軽々しく頭撫でさせるなよな」
「え……?」

 聞き返そうとした瞬間、大きな水音と共に濡れた肌が頬に当たった。それは淋の胸で、葵は遅れて自分が抱きしめられていることに気付く。
 焦る気持ちよりも、先ほど彼が口にした言葉の方が気になってしまい、葵は彼の腕の中から顔を上げる。

「……もしかして、スケさんに嫉妬したの?」
「知るか」
 
 憮然として呟くが、それは真実だと告げているようで、葵は思わず噴き出してしまった。
 むっとした表情の淋が唇を重ねてきても笑いは止まらず、唇を合わせた状態のまま笑い続けると、淋も釣られて笑顔になる。
 ここが風呂場で、互いに裸だということも忘れ、二人の周りはふんわりと優しい雰囲気になった。

「リン、明日からもちゃんと頑張る……。リンの横に立ってて恥ずかしくない女優になるから」
「……期待してる」
 
 笑いを含んだ声は唇のすぐ傍で聞こえ、再び唇が重ねられた。
 ただ重ねるだけだった口づけは次第に深くなり、唇の端から彼の舌がぬるりと入り込んでくる。
 想いを通わせるようになってから幾度も重ねた唇は、対であるかのようにぴったりと重なりあい、互いを愛しいと思う気持ちを増幅させる。

「ん……ふ、ぁ……」
「こら、煽るな……」
「煽ってなんか……」

 咎める声も甘くなってしまい、これでは煽っていると思われても仕方がないと苦笑する。
 胸を隠していた手拭いが剥ぎ取られ濡れた素肌同士がぴったりとくっつくと、湯の中で温められた体が更に熱を増す。
 淋の手が背中を辿り、湯の中へと入ったその瞬間、明るい声が脱衣場の方から聞こえてきた。

「あれー? おリン、風呂入ってんの? おれっちも入っていいかぁ? 七巳の親分にこき使われて汗かいたんだよ」

 陽太の能天気な声で、そこにあった甘い雰囲気は壊れ、湯の中だというの冷水を浴びたように一気に寒くなった。
 踏み込まれてしまったら、体を見られてしまうどころか、こうして二人で風呂に入っていたことが皆に知られてしまう。

「り、リン、私、上がる……!」
「わ、馬鹿、今立ち上がるな!」
「え、きゃ……っ」

 立ち上がった瞬間、頭が急に重くなり湯の中へと倒れこんでしまった。幸い淋が手を伸ばしてくれたおかげで怪我もなかったが、派手な水音は立ってしまうし、裸の肌がくっついてしまうしで、葵の頭は更に混乱してしまう。
 その上、中での物音に気付いた陽太が脱衣場で騒ぎ出し、その向こうからも何やら物音が聞こえだした。
 絶体絶命のピンチというやつかもしれない、と考える葵の頭は緊張する場面だというのに白くぼやけてきている。

「馬鹿、湯当たりしてんだよ、動くな!」
「おい、おリン、何してんだよ、何かあったのか?」
「入ってくるなっていつも言ってるだろ! 茂丹、茂丹ーっ!」

 薄れゆく意識の中で、茂丹の吠える声と陽太の叫び声が聞こえたような気がした。
 風呂場での考えごとはほどほどにしよう、と葵が心に決めたのは言うまでもない。

 
 






 モドル