華
「ごめんなさいね、はる」
「いえ、困った時はお互い様ですよ」
心底申し訳なさそうな顔をする千富に明るく笑いかけて、はるは手にしていた箒を握り締めた。
久しぶりに着る宮ノ杜家の使用人の衣装は、普段着物で過ごすことが多くなったはるにとって心許ないものだった。
「……こんなところ見られたら、怒られるだろうなぁ……」
頭に浮かぶのは、宮ノ杜の当主となった恋人の顔。思い出すときにいつも怒った顔になってしまうのは、意外にこの表情が好きだからということかもしれない。
とにかく、彼に見つからないように気をつけなければならない。
はるは気合を入れなおし、庭に舞い落ちる葉を箒で集めだした。
事の発端は数日前のことだった。雅の母である千代子の店「迷いの里」を手伝うはるの下に、宮ノ杜家の使用人頭である千富がはるを訪ねてきた。
かつての使用人仲間であり、友人でもあるたえとはしょっちゅう連絡を取っていたが、千富と会うのは宮ノ杜家を出て以来となる。珍しいこともあるものだと驚くはるに、彼女は心底申し訳なさそうに頭を下げたのだった。
その用件とは、半月後にある舞踏会に向けて準備を進めているのだが、例によって例の如く使用人がやめてしまって人手が足らないので手伝ってくれないか、ということだった。
迷いの里が軌道に乗り少しずつ忙しくなっているので、はるとしては店を空けることに抵抗はあった。しかし、他でもない千富の頼みでもあり、尚且つ使用人がやめた原因にも心当たりもあったので、はるは半月だけという約束で宮ノ杜へ戻ることを承諾したのだった。
勿論、今の雇用主である千代子の了承も取り付けた。
「店は何とか出来るし、気にせんでええよ。それより、宮ノ杜の使用人が辞めた理由も想像つきます……。うちかて責任も感じますしなぁ。ほんまにあの子は……」
快く送り出したというよりは、息子の不始末に責任を感じて送り出したという形になったが、それでも千代子が後押しをしてくれたので、はるとしても心置きなく宮ノ杜へ戻ることが出来た。
「これでよし、と」
最後の葉をちりとりの中に収め、庭掃除は完了した。次は窓拭きをしなければならないので、急いで箒とちりとりを仕舞い邸の中へ足を向ける。
ついつい正面から入ってしまいそうになり、慌てて裏口へと急いだ。こんな姿を雅に見られるわけにはいかない。
宮ノ杜家に使用人として戻ることは、雅には内緒にしていた。彼が許すとは到底思えなかったし、言ったところで烈火の如く怒り出すのは目に見えている。
自分だけに怒りが向くのなら良いが、千富や千代子にまで矛先が向くことだけは避けたかった。
宮ノ杜の当主となった雅は忙しく、今までも一週間顔を合わせなかったことだってある。一週間も半月も大して変わりはないし、舞踏会を控えた彼は、きっと今まで以上に忙しいことだろう。
元来が能天気に出来ているはるはそう高を括っていたが、しかし現実はそう甘くはなかった。
◇
「あとは、これを片付けたら今日はおしまいね」
三日目までは何の問題もなくこなせ、この日も無事に一日を終えようとしていた。
手にしていた花瓶を倉庫へ持っていくと、使用人の一人がばたばたと廊下を走っていくのが見える。
宮ノ杜邸の廊下を走るつわものが自分以外にもいたのか、と呑気にそちらに目を向けると、その使用人もはるに気付いたようで、持っていたタオルをはるに押し付けた。
「わ、わ……! な、何?」
「私、私もう耐えられません……っ! これ、お風呂場へ持って行って下さい! 私、もうやめます……」
「え、ちょっと、あなた……!」
来たときと同じように走り去るその使用人は、はるの知った顔ではなかった。耐えられなくなった理由を考えれば溜息が出るが、とりあえずは渡されたタオルを届けなければならない。
嫌な予感はするが、それでもここではるがこれを持っていかなければ、あの使用人が万が一辞めることを思い留まったとしても、解雇されてしまう可能性が出てくる。
「これを頼んだのが雅様ってこともないかもしれないし、雅様でも入り口に置いていけばいいんだし……。大丈夫、よね」
自分に言い聞かせるようにそう呟くと、はるは風呂場のある二階を仰ぎ見た。
そこはしんと静まり返っているように見えたが、それでも何か不穏な空気を感じ取ることが出来る。
はるは手にしたタオルを握り締めて、階段を一段一段慎重に昇っていく。
この三日間、足を踏み入れることのなかった二階は、はるが宮ノ杜へ仕えていた時と何ら変わらなく見えた。
もう一度気合を入れて、風呂の扉を遠慮がちに叩く。
「どうか、違いますように……!」
祈るように小さな声で呟いたが、中から聞こえた声ははるの期待を裏切るものだった。
「遅いよ」
不機嫌そうなその声は間違いなく雅のものだった。
しかし、半ば予想出来た声でもあったので、はるは覚悟を決めて扉を開けた。
「……タオル、お持ちしました……」
いつもより高い声を出すことを心がけ、手にしていたタオルを扉の陰から差し出す。むっと立ち込める湯気の向こうは、ぼんやりとしか見えず、この分ならばはるだとばれることはないだろう。
手近にあった雅の本専用の椅子に手を伸ばしてタオルを置き、急いで扉を閉めようと体を反転させる。
「まぁ待ちなよ。何でそんな急いで行くわけ?」
「……え……」
楽しそうな雅の言葉に、はるは思わず動きを止めた。
顔は常に後ろを向いていた為、顔を見られたわけではない。それならば、彼ははるだと気付かないで使用人を呼び止めたのだろうか。
言い知れぬ不安が胸を過ぎったが、当主の言葉を無視して外へ出るわけにも行かず、はるは顔を背けたまま次の言葉を待った。
「僕の背中を流したいんだろう? すぐに外に出てどうするのさ。ふふ、まさか急に怖くなったとか言うんじゃないよね」
「……え……?」
背後で水音が響き、湯船につかっている雅が動いていることを知らせていた。
しかし彼の口から出る言葉ははるの理解出来るものではなく、何を言われているのかがわからず、思わず拳をきつく握り締めた。
「ほら、来なよ。一度だけでもいいとか言ってたんじゃないの? ああそうだ、妾でもいい、だったっけ?」
楽しそうな声は、風呂場の壁に反射して軽やかにそして淫靡に響く。彼のこんな声を、はるは今まで聞いたことがない。
当主となった雅は、以前の我が侭な彼とは違ってきているのはわかっていたが、まさかこんな風に使用人と接していたとは思わなかった。いや、思いたくはなかった。
涙が零れ落ちそうになるのを必死で堪えながら、はるは湯気で滑る扉の取っ手を震える手で握り締めた。
早くここから出てしまいたかった。出てしまえば、彼のこの言葉が嘘だったのだと思えるかもしれない。
「とりあえず、その服脱ぎなよ。風呂場で服着てるなんて無粋だろう?」
「……っ」
耐えられず、堪えていた涙がぽろりと頬を伝った。
「泣くくらいなら、最初から僕に黙って使用人にならなきゃいいじゃないか。はる、お前馬鹿じゃないの?」
「!」
驚いて思わず後ろを振り向いた瞬間、はるの手は掴まれて思い切り引っ張られた。
何が起こったのかと考える間もなく、目の前で水飛沫が上がり、口の中に温かな湯が入ってくる。
目を白黒させながらむせこむと、涙の浮かんだ目に不機嫌そうな雅の姿が映った。
「……っ!」
「……何してんのさ」
思わず逃げようと立ち上がるが、水分を含んだ洋服は重く立ち上がることが出来ない。
もがけばもがくほど水飛沫が上がり、目の前の雅の顔が厳しくなっていく。
「はる」
「……はい……」
聞いたことがないぐらい低い声で名を呼ばれ、はるは観念して体の力を抜いた。
暴れたせいで、頭の先まで湯がかかってしまい、前髪からもぽたぽたと雫が下がってくるのが気持ち悪い。
「何でこんなところにいるのさ」
「えっと……ちょっと所要で」
「へぇ? おまえ、いつから宮ノ杜の使用人に戻ったわけ? 僕は聞いてないんだけど」
言ってないですから、とはさすがに言えず、はるは仕方なく千富に頼まれて半月だけ戻ってきたことを告げた。
しかしその理由は雅にもわかっていたようで、驚く様子もなく彼はただ黙って聞いていた。この場所が風呂場の、しかも浴槽の中でなければ普通の会話なのだが、裸の雅に向かい合う形で湯船に使っている状況が恥ずかしく、はるは顔を赤らめて俯いた。
「だ、大体、雅様が使用人に意地悪をするから、すぐに辞めてしまうのですよ。……まだ使用人がお嫌いなんですか?」
「嫌いじゃないさ。ただ、僕がお前を妻にすることが有名な話になっていてね、前以上に変な期待を抱いて使用人になりたがる輩が増えたから、対策を練っただけだよ」
使用人から妻へ、それは端から見れば玉の輿の典型だろう。
以前であれば、兄弟に憧れを抱いている使用人もいたが、そこまで大それたことは考えていなかっただろうが、それが今は元使用人のはるが当主になった雅の恋人の立場を獲得したことで、他の兄弟達にもそういう可能性があると踏んだ人間が増えてしまったのかもしれない。
雅が使用人に嫌がらせをしている事実は変わらないだろうが、以前と違いそこには理由が存在した。そしてそれは、少なからずはるにも責任があることなので、少ない使用人を遣り繰りしている千富に申し訳なくなってしまう。
「わかった? でも、さっきのお前、すごくおもしろかったね」
「ひ、ひどい……! 雅様があんなこと仰るから……。き、傷ついたんですからね」
「馬鹿じゃないの? 僕がお前以外の人間に触るわけないかないか」
「う……」
当たり前のように言われて、当たり前のように抱き寄せられる。
いつもならば、恥ずかしさはあるものの抵抗などしないはるだったが、今日だけはそうもいかなかった。
「こんなに濡れてしまって……。どうやって部屋まで帰ればいいんですか……」
湯の中で揺れるエプロンを見つめながら、はるは泣きそうな気持ちでそう呟いた。どう考えても、使用人宿舎に辿りつくまでに宮ノ杜邸をびしょ濡れにしてしまう。
はるは途方にくれているのに、対する雅は実に楽しそうに笑いながら、はるの体を抱きしめた。
「はる、僕は当主になったんだよ? 当主の部屋って、どこにあるか知ってる?」
「え……?」
宮ノ杜の子息の部屋は、風呂場から廊下を隔てた隣りの棟にあるが、当主の部屋は風呂場の真向かいに存在する。
そこまで考えると、雅の言わんとしていることが理解出来、はるの顔が赤く染まる。
「床が濡れるのが嫌なら脱いでしまえばいいさ。このままお前を裸で連れて行っても、誰にも見咎められないよ。ああそうだ、お前、もうこのまま妻の部屋に住んでしまうか? 僕はそれでも構わないのだけれど」
「そ、そんな、雅様……!」
焦るはるを尻目に、雅はにやりと口元を歪めた。以前はこういった顔をされると恐怖を感じたものだが、今ではその表情の中に艶めいたものを感じ取ってしまうからたちが悪い。
濡れた髪の毛をかきあげる雅は男だというのに色っぽく見え、更に裸の体に抱きしめられているのではるの鼓動は高まるばかりだった。
「雅様は、意地悪です」
「今更? これに懲りたら、もう僕の知らないところで勝手なことをしないことだね。まぁ、とりあえず今日どうするかは、お前に決めさせてあげるよ。さぁ、どうする?」
「……」
挑戦的な言葉に顔をあげると、はるは諦めて溜息をつきそのまま目を閉じた。
柔らかな唇が降りてきて、はるの唇を優しく食む。何度も角度を変えて繰り返される口付けで次第に思考は溶けていき、濡れた服を脱がされる手にも抵抗は出来なかった。
翌日、こっそりと当主の部屋に服を届けに来てくれたたえに、今まで以上に頭が上がらなくなってしまったのは言うまでもない。
戻 ☆