最後に、手を繋いだのはいつのことだろう。
昔は。
小さなゆずるくんの手を引っ張っていったのは、私の方だったのに。
いつから、手を繋いでいないんだろう。
手の温もりと一緒に。
譲くんのこころまで遠くなったみたいで。
寂しいよ。
「・・・あれ・・・?」
冷たい感触がして、目が覚める。
起き上がってみると。
頬が濡れていた。
眠りながら泣いていたよう。
そんな自分の様子に、望美は溜息をついた。
先程まで見ていた昔の夢が、今はひどく遠い気がして・・・。
胸が、締め付けられる。
「譲、くん・・・」
名前をそっと呼ぶが。
朝の清涼な空気に溶けて、消えてしまう。
届けたい人は、こんなに近くにいるのに。
それでも届かない現実に。
歯噛みしたいような、そんな気分だった。
「望美、あなた起きてきて大丈夫なの!?」
熊野の宿中に響き渡るような、朔の咎める声に、望美は苦笑した。
どこも怪我はないと言うのに。
「大袈裟だよ、朔。怪我なんてしてないんだし」
「でも、崖から落ちたのよ?もう少し安静にしていた方が・・・。あ、譲殿!ねぇ、あなたからも止めてちょうだい!」
「え?」
彼女の口から、予期せぬ名前が飛び出した。
そこで望美は、譲が部屋に入ってきていた事を知る。
そのとたん。
望美の体に、緊張が走った。
しかし。
「先輩、本当に寝てなくて大丈夫なんですか?もし、後遺症なんかがあったら大変ですよ」
予期していたものとは違い、その声はいつも通りやさしい。
心配そうなその声音に、望美の体の緊張が解ける。
ああ、いつもの譲だ。
心配をかけているというのに、胸の内に嬉しい気持ちがひろがっていった。
「うん、大丈夫。すぐに白龍が助けてくれたから、かすり傷一つないよ」
心の中が現れているかのような、明るい声でそう言う。
その、とたん。
譲の瞳が、さっと翳った。
それは、本当に些細な変化。
きっと、望美でしかわからないぐらいの。
その証拠に。
動けなくなってしまった望美と違い、隣の朔は普通に話しかけている。
彼女には、譲の変化は見えていないのだ。
「でも、先輩。一応、体には気をつけてくださいね」
労わるような、言葉。
しかし、それを言う譲は、もう望美を見てはいない。
視線は宙を彷徨い。
じゃあ、と短い一言を残して、部屋を出て行ってしまった。
大きく広い背中が。
まるで、彼女を拒むかのように遠くなる。
昔とは違う、背中。
筋肉がつき、自分よりも逞しくなった彼。
その姿を見送り。
望美は、小さく溜息をついた。
譲の様子がおかしくなったのは、つい昨日のこと。
望美が崖から足を滑らせ、間一髪助かった後から。
自分の無事を喜んでくれたけれど。
その声は硬く。
まるで、拒まれているかのような印象を受けた。
気のせいであってほしい。
そう、願わずにはいられない。
だが、宿についてからも、その様子は変わらずで。
ついに望美は、あんな夢まで見てしまったのだ。
「何か・・・しちゃったのかなぁ・・・」
ぽそりと呟いた。
その声は、潮風にのって海へ溶けていく。
青い空と同化している、穏やかな海。
日差しを受けて、水面がきらきらと輝き、幻想的な光を放っていた。
あの後、望美は朔の目を盗み、宿を抜け出した。
勿論、散歩に行くとの書置きは残していったが。
それでも、行き先を書かなかったのは、一人になりたかった為か。
自分自身でも、わからない。
ただ。
人の気配のない所で、少し落ち着きたかったのだ。
そうして、ここへ来た。
宿からそう遠くない、海の見える丘。
活気溢れる港を敬遠して、何とか静かに海が見える場所をみつけた。
緑の草の上に腰を下ろし、ぼんやりと潮風に吹かれていると。
自分の心が穏やかになっていくのが感じられる。
心を占めるのは、怨霊でもなく。
源氏の事でもなく。
ただ、譲の事ばかり。
こんな自分は神子失格ではないか、と少しばかり落ち込むが。
考えれば考えるほど、彼の事が頭から離れない。
まるで、自分を避けるような仕草。
いつも、優しげな目で見てくれていただけに、余計に気になる。
こちらの世界に飛ばされてからは特に。
身を挺して自分を庇ってくれることまであったというのに。
何故。
そこまで考えると、ふいに胸が締め付けられる感覚を覚えた。
その感覚は。
不思議なことに、前も感じたことがある。
どこかでー?
暫くの間、考えを巡らせ。
答えに行き着いた。
そう。前も、こんな事があった。
あれは。
譲が、自分のことを「先輩」と呼び出した時のこと。
あの時も、彼は目を合わせてはくれなかった。
今まで通り呼んでよ、という望美に。
頑なに首を振り。
一緒に学校行こうと誘っても、断られ。
あまつさえ、何の相談もなく部活を始め、より一層話す時間が少なくなった。
その時の譲が。
今の彼と、同じだった。
将臣は、いつまでもガキじゃねぇんだから、と笑っていたし。
部活を始めて少しすると、譲が望美を避けるようなことはなくなったのだが。
開いてしまった距離は、なかなか埋まるものではない。
それが。
この世界に来てから、その距離は一気に近づいたように感じていたのに。
まるで。
小さな頃、「のぞみちゃん」と呼んでくれた頃のように。
「・・・私、何かしちゃったのかな・・・」
もう一度、同じ疑問が口をついて出る。
以前の変化は、成長したから、と考えるのしても。
今回のは、明らかに何か理由がある。
考えられることは。
望美が、崖から落ちたこと。
落ちる前に、散々譲に言われていた。
「足場が悪いので、気をつけて下さい」と。
それなのに。
いくら、怨霊の気配に引きずられていたとしても。
自分のミスであることには変わりない。
もしかすると。
そんな自分に、呆れてしまったのではないか。
望美は、そう思えてならなかった。
「・・・私が、ちゃんとしなかったから・・・」
座り込んだまま、膝を抱える。
じわり、と浮かんでくる涙をこらえるように、そこへ顔を伏せた。
湿り気を含んだ海風が、望美の長い髪を掬う。
まるで、撫でるように。
だが。
望美が撫でて欲しいと願う相手は、こんな儚い風ではなく。
もっと、優しい手。
いつも引っ張ってきた、優しい手。
最後に、手を繋いだのはいつのことだろう。
いつから、あの手は遠いものになってしまったのだろう。
こらえていた涙が、じわりと滲んできた。
その、時。
「先輩!?どうかしたんですか!?」
望美の背後から、焦ったような声が届く。
それは、彼女が。
今一番会いたくて、でも会いたくない相手の。
声。
振り向いて、その顔を確かめたい。
けれども。
また、目を逸らされたら。
また、距離を置かれてしまったら。
そう思うと、体を動かすことが出来なかった。
「先輩・・・!?」
望美が動かないのを不審に思ったのか。
声は間近までせまり。
ふいに、肩を掴まれた。
「先輩、泣いて・・・!?」
「!!ちが・・・!泣いてなんか・・・」
無理に振り向かされた先には。
心配そうな、譲の顔。
(・・・あ・・・)
いつもは、眼鏡の奥に隠されて見えにくい目が、今は自分を見ている。
その、瞳は。
先程、逸らされてしまった新緑の瞳は。
真っ直ぐに望美の姿を映し出していた。
そのことが単純に嬉しくて。
重苦しくなっていた胸の内が、暖かくなっていった。
「・・・泣いてなんか、ないよ・・・」
「そうなんですか?でも・・・」
「本当に、なんでもないの」
望美の表情が幾分柔らかくなったことに気づいて。
譲も、掴んでいた肩を離した。
そして、張り詰めていた神経をふっと開放する。
「譲くん?」
「心配、したんですよ・・・?」
「え・・・?」
「あんな書置きひとつで。怨霊も平家もいるこの熊野で、何かあったらどうするんです?
心臓が・・・止まるかと思いました・・・!」
「あ・・・・」
「あなたに何かあったら、俺は・・・・!!」
譲の顔が苦しそうに歪められ。
望美は、また自分の失敗を悟った。
いくら一人になりたかったとはいえ。
軽率だった。
神子という立場を忘れた今の自分。
それは。
譲に避けられていた理由の一つ、ではなかったのか。
「ごめ・・・なさ・・・」
「先輩・・・?」
恥ずかしくなって、望美は立ち上がった。
またしても、同じ失敗。
進歩のない自分と。
またしても、譲に呆れられるのではないかという不安。
それを感じ、その場にいることが出来なくなったのだ。
「ごめんなさい・・・。私、何も考えないで・・・。
譲くんに迷惑ばっかりかけちゃって。
ごめんなさい・・・」
「先輩?迷惑だなんて・・・」
「ちゃんと、するから・・・。これからは、ちゃんとするから・・・」
言ううちに、望美の瞳に涙が盛り上がってくる。
それを見られたくなくて。
一歩、後ろへ下がった。
「私、迷惑かけないように、頑張るから・・・・!」
嫌わないで・・・・。
そう告げたとき。
譲の目が、大きく見開かれた。
その瞬間。
望美の体が、後ろへ傾いでいった。
柔らかい下草は、彼女の足を滑りやすくさせていて。
無意識のうちに後ずさっていた彼女は、急斜面を踏み外してしまったのだ。
「先輩・・・!!」
すぐに、譲の腕が伸びる。
あ、と思ったときには。
望美の体は、彼の広い胸の中に抱きかかえられていた。
「・・・あ・・・」
ふわり、と立ち上る譲の香り。
懐かしいものと。
男っぽさを感じるものと。
その両方が合わさった香りが、望美を柔らかく包んだ。
「・・・俺が、先輩を嫌うわけないじゃないですか・・・!」
「ゆずる、くん・・・?」
苦しそうに告げられた言葉。
抱きしめられたことで、呆然としてしまった望美だが。
その声の響きに、はっとして我を取り戻した。
彼の真意を図りかね、その表情を確かめようと身じろぎするが。
譲の力は、ますます強くなるばかりだった。
「すいません・・・。様子がおかしかったのは、俺のせいだったんですね」
「・・・・・・・」
「先輩の事も考えず、あんな態度とって・・・。すいません・・・俺ってやっぱりガキですね」
「・・・え・・・?」
自嘲気味に呟かれた言葉に、望美がぴくりと反応を返した。
もしかすると。
ただ、自分の失敗に怒っていただけではなかったのかもしれない。
望美には、今の言葉はそう取れたのだった。
「譲くん・・・?私がちゃんとしないから、怒ってたんじゃないの・・・?」
「先輩は・・・。神子として立派にしてたじゃないですか。
剣の腕だって上達したし、何でも自分でこなせてしまう。
・・・・俺なんかが、いなくても・・・」
ぎゅう。
望美の背にまわされた腕に、更に力がこもる。
だが。
俺なんかがいなくても。
その台詞が引っかかり、望美は暖かな腕から抜けだした。
「譲くん・・・?」
戒めを解いて、その顔を見る。
間近にあったその瞳は、今は暗く翳り。
ふ、と望美から視線を逸らすのだった。
「譲くん、ちゃんと言って・・・?私は、譲くんがいなくても大丈夫なような、そんな強い神子じゃないよ・・・?」
「・・・先輩・・・」
譲が、何かを耐えるように眉根を寄せる。
それを告げることは、それほどまでに辛いことなのか。
けれど。
望美は、確信する。
このままでは、いけないのだ、と。
このままでは、自分達は平行線なのだ、と。
「譲くん・・・」
望美の手が、そっと譲の頬に触れる。
その瞬間、彼の眼鏡の奥の瞳が見開かれた。
そして。
望美の手の上に、そっと大きな手が触れていく。
「・・・先輩を守るのは、俺だけで良かったんです・・・」
ぽつり、と独り言のように紡がれる言葉。
望美は、静かに耳を傾けた。
「京に来てから、ずっとそう思ってました。兄さんがいないのなら好都合だし。俺だけが、あなたを守れるって・・・。そう思ってました。
でも・・・。肝心なところで、あなたを守れないし。その上、自己嫌悪で落ち込んであなたを心配させて。・・・本当に俺って・・・」
苦しげに告げられた、譲の胸の内。
それがどれほど重かったものか。
望美は、触れ合った手の温もりから感じ取ることが出来た。
そして。
その内容に。
彼女の心は、締め付けられるような喜びを感じる。
「こんな独占欲、先輩には迷惑だってわかってるんです。
俺の実力がそれにそぐわないことも。でも・・・」
そこまで言った時。
譲の体が、柔らかく抱きしめられた。
「・・・え・・・?」
今度は、望美から。
譲の首にかじりつくような格好で。
「せん、ぱい・・・?」
戸惑ったような譲の声。
「どうして、そんな事言うの?
私だって・・・。譲くんに助けられてることたくさんあるのに。
この世界に飛ばされて。不安だった時も、いつも譲くんがそばにいてくれたから頑張れたのに」
「・・・・先輩・・・・っ・・・・・!!」
そっと、腕を離す。
しかし、体は離さず。
その距離は、互いの息が感じられるほど近い。
そこで望美は、譲の眼鏡の奥がかすかに潤んでいるのをみつけた。
昔、そうしたように。
そっと、指でその目尻を拭う。
昔と違うのは。
譲も、同じ事をして返してくること。
大きく、優しい指でそっと瞼に触れられて。
ようやく、二人の心が重なったことを実感した。
「ふふ・・・。何だか、二人で気を遣いあってたんだね」
「そう、ですね」
望美が笑うと、譲の表情も柔らかくなる。
それと同時に、張り詰めていた空気はなくなり。
柔らか風が通り抜けていった。
心の中に巣食っていた、暗澹たる気持ちも。
その風に乗って溶けていく。
心地よい潮風が、二人の間を通り抜けて。
そして、二人の距離を近いものにしていった。
「・・・帰りましょうか」
少し恥ずかしげな譲の声。
瞳の翳りはもう姿を消し。
穏やかで、それでいて深い色の緑がそこには宿っていた。
「もう、帰るの・・・?」
不満げに呟けば。
その顔が、嬉しそうに微笑んだ。
その笑みがいつもと違うように見えるのは、何も望美のきのせいではないだろう。
「・・・俺も、もっといたいんですが。・・・実は、心配してるのは俺だけでもないんで」
「・・・あ」
宿に残してきた、そっけない書置き。
きっと、朔は心配しているだろう。
そう思うと、二人でいたいなどというわがままも言えなくなってしまう。
望美は慌てて立ち上がった。
少し残念な気持ちは、やはりあるのだけれど。
「先輩?」
呼ばれて、顔を上げると。
そこには。
差し出された、大きな手。
記憶にあったものよりも、随分と大きくなって、逞しくなっている。
掌に見える肉刺は、弓によるものだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていると。
「先輩」
急かされるように、呼ばれた。
ハイと、顔を赤らめて。
望美は手を伸ばした。
手を、繋ぐ。
今朝の夢のように。
しかし。
「え?」
せっかく、掴んだ手はすぐに離されてしまう。
驚いて顔を上げた先には。
いたずらっこのような、譲の顔。
「こう、ですよ」
するり。
指と指が、絡まった。
幼い子どものような繋ぎ方ではなく。
それは、まるで。
まるで・・・・・・。
手を繋ごう?
あなたの温もりを感じたいから。
あなたの心を感じて、いたいから。
絡まったこの指先が。
この先、ずっとこのままであるように。
繋いだ手が。
ずっとそのままであるように。
お粗末様でした。譲くんメインではなく、何だか望美ちゃんの話のような気も・・・(汗)
譲くんルートの望美ちゃんは、彼の事が大好きでたまらないって気がしてなりません。
そのクセ、二人の心がすれ違ってるところもまた良いのですけれど。
なので、この話の望美ちゃんも、譲くんの事が大好きな設定にしてみました。多分、彼が先輩を想ってる以上に、望美ちゃんは譲くんのことが大好きなのです(笑)
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