はらはらと、紅葉が散っていく。
里山を紅く染めていたそれらは、風に誘われまるで雨のように降りそそぐ。
散っても散っても一つも減ってはいないように、見渡す木々は尚紅く色づいていた。
珠紀はそれをぼんやりと眺めながら、手にした紙をそっと畳む。
柔らかな色合いの便箋は、送り主の人柄が表れているように優しい。
季封村は、鮮やかな秋を迎えていた。
珠紀がここへ来て一年と少し。そして、綿津見村の事件を解決して、一つの季節が通り過ぎていた。
この一年は、彼女が過ごしてきた十八年間の中で特に濃い一年となった。
内容を考えれば、今までの人生はぼんやりと過ぎていっただけに過ぎないとさえ思えてしまう。
季封村へ来て、玉依姫になり。鬼斬丸を封印して平穏な日々が送れるかと思えば、綿津見村へ行く事になり――。
大変なこともたくさんあったが、その中で大切な人との出会いもあった。
信頼出来る仲間との出会い。それから、愛しい人との出会い。
綿津見村では、同じ運命を担った少女とも出会うことが出来た。
珠紀はもう一度、畳んだ紙をそっと広げた。
それは、もう一人の玉依姫――高千穂珠洲からの手紙だった。
「元気にしてるみたいね」
小さく呟くと、思わず顔に笑みが広がった。
同じ運命を辿る者としてだけではなく、珠洲には何か惹かれるものがあった。
共に過ごした時間は決して長いものではないというのに、まるで妹のような気すらしてくる。
そんな珠洲からの手紙。
珠紀は何度もそれを読んでいた。
珠紀さん、お元気ですか。
何気ない言葉で始まる文章。
中身は、賑やかな綿津見村の様子と近況が綴ってある。
一見微笑ましいだけの手紙。
しかし、珠紀は何か引っかかりを覚えていた。
「……やっぱり、亮司さんとのことは大変なのかな……」
珠洲の恋人となった守護者の一人の笑顔を思い浮かべ、珠紀は溜息をつく。
年の離れた恋人ということも彼女達の類似点でもあるので、やはり気になって仕方がない。
その上珠洲の場合、恋人は姉の元婚約者であるから更に厄介だ。
「ただ年が離れてるってだけでもこんなに不安なのに……」
唇を尖らせ、そう呟いた瞬間。
ふわり、と後ろから何かに包まれた。
「……何が、不安なんです……?」
優しい声が頭上から降ってきて、ようやく誰かに抱きしめられているということに気づいた。
「え、卓さん……?」
気配など微塵も感じなかった。
それだけ珠紀が物思いに沈んでいたのか。はたまた、卓が気配を消してきたか。
恐らくそのどちらでもあるのだろう。
珠紀は、そっと唇を噛んだ。
聞かれたくない言葉を聞かれてしまったのだ。
「寒くなるので迎えに来ました。どうしてこんな場所まで来たんですか?」
「……紅葉が、きれいだったから……」
卓の問いに、珠紀はぼそぼそと答えた。
大蛇卓――。玉依姫の守護者にして珠紀の恋人である彼は、紅葉を眺めながら小さく溜息をついた。
彼の顔は頭上にあるので、珠紀にその表情まではわからない。
けれど先程の言葉を聞かれたのであれば、きっと晴れやかなものではないだろう。
「私といるのは不安ですか……?」
耳朶をくすぐる、愛しい人の声。
柔らかい響きと優しい声音は、珠紀の胸の内を温かくする。
じわり、と彼を好きだと思う気持ちが溢れていく。
しかしその心のどこかで、黒い影が蠢いているのも確かだった。
私といるのは不安ですか……?
卓の問いは、その影にも届いている。
「……いいえ、そんなことないです……」
小さな声で答えながらも、珠紀は胸の中で頭を振った。
いいえ、不安なんです。いつでも、不安なんです。
黒い影が、そう答える。
それを押し隠すように、珠紀は卓の腕をぎゅっと掴んだ。
自分の心に負けてしまわぬよう、強く。
はらり、と紅葉がまた落ちていく。
舞い散る緋色の紅葉は、自身の心の渦を表しているように見える。
珠紀は、誤魔化すようにそっと目を閉じた。
珠紀が不安を覚えたのは、昨日今日の話ではなかった。
さすがに鬼斬丸を巡る戦いの中ではそんなことは考えもつかなかったが、平和になるにつれ卓の存在がどれだけ女性を賑わせるものかということを嫌というほど教えられた。
誰にでも優しい卓。
紅稜学院高校に茶道を教えにくるたび、女生徒はおろか女の先生にも囲まれている。
にこやかに彼女達をあしらうその姿を見ていると、女性の扱いに長けていることが容易に想像出来た。
過去に拘るつもりはない。
そうかっこよく言ってみたいものだが、珠紀の心は幼すぎる。
男性とつきあうことが初めてであれば、余裕のありすぎる卓の態度は不安でしかない。
その不安が大きくなったのは、共に綿津見村へ行ってからだった。
「……珠洲ちゃん……」
妹のように思う少女の名前をそっと呼ぶ。
彼女の手紙には、晴れて珠洲の恋人となった青年、天野亮司の話も書いてあった。
優しくて私にはもったいないです、と。
それから。
「真緒姉さんが、もうすぐ家に帰ってきます――か……」
八坂真緒。
珠洲の姉にして、天野亮司の元婚約者。
その彼女が帰ってくるのだという。
珠洲の手紙には、不安など書いてはない。
けれど、珠紀は小さな漣のような気をその文面から読み取っていた。
同じ玉依姫の繋がりだろうか。薄い紙の中に、珠洲の抱える不安や怯えが見え隠れする様がよくわかった。
まるで水面に落ちる雫のように、それらは波紋を作りながら広がっていく。
その波紋は、手紙を受け取った珠紀にも伝わった。
「……大人の、男の人だもんね……」
ぽつりと呟く声は、空気に溶けて消えていった。
夕闇が小さな珠紀の部屋に広がっている。
電気をつけていないそこは、暗く沈んでいた。
家に帰ってから、彼女は手紙を握り締めたまま動けないでいたのだ。
「……珠紀さま……?」
廊下から、遠慮がちな美鶴の声が掛けられる。
「大蛇さんからお電話なのですが……」
珠紀は携帯電話を持っていない。そして、宇賀谷家の電話は子機などというものはついていない。
電話に出ようと思えば、そこまでいかなければいけないのだ。
「…………」
「……珠紀さま……?眠っていらっしゃるのですか……?」
美鶴の声に返事をせず、珠紀は膝を抱え込んだ。
しばらくすると、諦めたのか小さな足音が部屋から遠ざかっていく音が聞こえた。
珠紀は、ほっと溜息をついた。
今は卓の声を聞きたくなかった。
この、醜い胸のうちを見透かされたくはなかった。
それから、何となく卓を避ける日が続いた。
拓磨や慎司のように同じ学校に通っているわけではない卓とは、会わないでおこうと思えば簡単に顔を合わせないでいられる。
会いたいと思う気持ちはある。会って、あの笑顔を見たいとも。
けれど、その時また自分の心に広がる闇を自覚したくはなかった。
まだその気持ちと向き合う自信が全くなかった。
「弱いな、私」
ぽつりと呟くと、呼応するように風が巻き起こった。
幾多の紅葉を巻き込みながら、風は山を滑り降りていく。
それを見つめながら、珠紀は溜息をついた。
卓を避けるようになってから、一週間がたとうとしていた。
季封村には、放課後遊ぶような場所はない。かといってそのまま帰宅してしまえば、卓が待っている可能性がある。
なので、珠紀は夕食の時間が過ぎるまで、季封村の山々に登って時間を潰していた。
これも鬼斬丸を封印したからこそ出来ることなのだと思えば、苦笑がこぼれてしまう。
こんなことの為に封印したわけではないというのに――。
「強く、ならなきゃね」
呟く声は、内容に反して弱い。
強くならねばと思う。過去に拘る弱い心を鍛えなければ、と。
生きてきた時間も、境遇も違う。分からない事などこれからたくさん出てくるだろう。
そのたびにこんなに悩んでいてはきりがない。
過去に卓がどんな女性とつきあってきても今から未来までずっと共にあるのは自分だけなのだ、と信じなければいけない。
「信じてるよ、信じてる……。だけど……」
不安は、尽きる事はない。
舞い落ちる紅葉は珠紀を包み込んでいく。
紅い景色は視界いっぱいに広がって、心の不安をかき乱してしまう。
その時、風が吹いた。
湿った匂いのするそれは、雨雲が傍にいることを知らせている。
それでも珠紀は動けない。
風に煽られた緋色の欠片は、これから降る雨を予想させるかのように珠紀の頭上に降ってきた。
「珠紀さん」
紅葉に飲み込まれる前に、珠紀は何かに包まれる。
既視感を覚えて顔を上げれば、やはりそこにはいつかのように自分を抱きしめる卓の姿があった。
着物に宿った香が、珠紀の心を優しくなだめていく。
「……卓、さん……」
「また、ここにいたんですね。探しましたよ」
喋りながらも、卓は珠紀を抱きしめる腕を緩めない。
まるで、自分の不安をわかっているような仕草に、珠紀は胸が熱くなった。
「ごめんなさい……」
「……最近、私を避けてましたね……。何か気に障ることをしましたか……?」
「いえ、そんな……こと、は……」
ないです、と続けられなかった。
鼻の奥がつんと熱くなり、涙が一粒零れ落ちる。
泣いてはいけない。泣いては、卓が困ってしまう。
そう思うが、涙は留まることをせず次々と溢れてきた。
「泣かないで……」
頭上から降ってくる声は苦しげに掠れていた。
珠紀の胸の前で交差された腕は強く、暖かい。
「ごめ……な、さい……」
ようやく唇から出せた言葉は、謝罪だった。
ごめんなさい。
何も卓が悪いわけではない。ただ、自分の心が弱くて脆いだけ。
そんなことは、わかっていた。
「ごめん、なさい……。私が勝手に不安になって……」
「……不安……?」
「……あ……」
体に回された腕がそっと解かれた。
しまった、と思った時にはもう遅く、珠紀の体はくるりと反転させられ目の前には卓の端正な顔があった。
怒らせてしまっただろうか。
しかし、卓の目はいつものように穏やかに凪いで、珠紀を見つめている。
「不安は、なんです……?教えてはくれないんですか……?」
「……………」
唇を噛む珠紀の顔を、卓の両手がそっと包む。
大きな手は温かく、冷え切った彼女の頬を暖めていった。
「あなたが、何か悩んでいることは知っていました。その原因が私だとも」
「……卓さん……」
「私はどうすればいいですか……?どうすればあなたが安心して傍にいられますか……?」
優しい言葉に、緩みきった涙腺は耐えられず再び涙が盛り返してくる。
頬を伝い落ちる涙は、卓の指でそっと拭われた。何度も、何度も。
「珠紀さん……」
卓は身を屈め、珠紀の目じりに優しく口付けた。
生まれたばかりの涙が、そっと舐めとられていく。
口付けは目じりに留まらず、珠紀の顔の様々な所へ降ってきた。
額に、鼻筋に、頬に、瞼に。そして、唇に。
優しい口付けが落ちるたび、珠紀の心が軽くなる。今まで感じていた不安は、少しずつ小さくなっていった。
「……卓さん……」
「珠紀さん、私はどうすればいいですか?あなたが望むなら、どんなことだってしましょう」
卓の深い色の瞳が、より一層色を濃くする。
珠紀は、その目を見つめた。中に映っているのは、自分の姿。自分の姿しか、ない。
「……抱きしめて、キスしてください……。私がもっと強くなるように。不安なんか、考えてしまわないように……」
言い終えた瞬間、風が吹いた。
紅葉を散らし、珠紀の心を乱す紅い欠片を生み出す風が。
珠紀は、瞬時に身を竦めた。小さくなった心の闇が再び動き出しそうな気がした。
しかし、身を切るような風は彼女の体に当たる事はなかった。
珠紀の体は、卓の大きな体の下で守られている。
風からも紅葉からも守るように、卓は珠紀の体を強く抱きしめていた。
「卓さん……」
「……あなたを、愛してます。前に約束したでしょう?どんなことがあっても、あなたを守る、と。その約束は一生続くのですよ……」
再び、口付けられる。
今度は優しいだけのものではなかった。唇を割り舌を差し込んで、二人はより深く繋がる。
溶け合うような感覚に、珠紀は体の力を抜いていく。
柔らかく溶ける心の中で、黒い闇は姿を消していた。
「……私も、卓さんを愛してます。ずっと傍にいてください。私が不安に負けないように、傍に……」
「……それはお願いされなくても、私がしたいことの一つですよ……?」
くすりと笑われ、もう一度口付けられた。
珠紀は、そっと目を開ける。
紅葉はまだ舞い落ちていた。けれど、珠紀に襲い掛かることはない。
卓が、その身を守ってくれているのだから――。
珠洲ちゃん――。
心の中で、もう一人の玉依姫を呼ぶ。
きっと、彼女も大丈夫だ。
珠紀はそう思った。
自分の不安は、卓が拭ってくれた。珠洲の不安も、きっと亮司が拭ってくれる。
彼は、珠洲の恋人であり玉依姫の守護者なのだから。
幾多の運命に翻弄されながらも、共にあることを決めた恋人は、どんなことをしても愛してくれるだろう。
珠洲の中にある、零れ落ちる雫のような不安は亮司が受け止めてくれるはず。
珠紀は、そう確信した。
舞い散る欠片、零れ落ちる雫。
不安はいつでも生まれてくる。
けれど、彼女達は一人ではない。
珠紀は、卓の腕の中で再び目を閉じた。
温かい体に身を委ねながら。
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