重ねた手
不思議な少女だとは、常々思っていた。
格好もおかしなものだし、彼女の発言も時折常識と外れている。
それに、博望の戦いでの彼女の策は敵ながら見事なものだった。実際こんな小さな少女が立てた策だとは正直思いたくもなかった。
孟徳が彼女を連れて来た時、正直苦い気持ちしか持てなかった。死んでいった部下の為にもそうするしかなかった。
それが、今は――。
「……何を、してるんだ」
元譲は思わず目を疑った。
目の前にいる少女は、元譲の机の上で気持ち良さそうに寝息を立てている。
思わず辺りを見回したが、何度見てもここは彼の自室だった。
起こそうかとも思ったが、女性の起こし方を元譲は知らなかった。自分の部下達のように叩き起こすべきではないということだけは、彼にもわかっている。
しばらく考え込んだ後、元譲は自室を後にすることを決めた。
「何で俺が部屋を追い出されねばならんのだ」
小さく呟きながら、元譲は外の風景を眺めた。陽が傾き始めて木々に長い影が出来ている。すぐに夜の帳が下りるだろう。
あの少女は、いつ起きるのだろうか。
彼女が眠っている限り、元譲は自室には戻れない。かといって、こういった時に身を寄せる女性の部屋も彼にはなかった。
「元譲殿。ああ、こちらでしたか」
「文若」
どうしたものか、と大きな溜息を付いた時に声を掛けられた。
眉間に皺を寄せたいつもの文若の顔を見た瞬間、元譲はようやく彼に文句を言うべきだと思いついた。
彼女の面倒は彼が見るということになっていることを、今の今まで忘れていた。どれだけ自分の頭が混乱していたのかと思うと、苦い気持ちにすらなる。
「元譲殿、花がそちらへ行きませんでしたか?」
「文若お前――は? あ、ああ、来ているが……」
文句を言おうと口を開いた瞬間、先制攻撃のように文若の方から彼女の話題を出された。
「暫く彼女を預かってほしいのですが」
「……は?」
何年も変わらない表情で、文若は元譲の理解出来ない言葉を連ねていく。
彼女を預かってほしいと彼は言ったが、その彼女とはまさかあの少女のことだろうか。
自分の机の上で寝ていた彼女の姿を思い出し、元譲は思わず拳を握り締めた。
「花ですよ。私のところで仕事を覚えさせたのですが、何せ字が読めないもので役には立たないのですよ。元譲殿もご承知のように、私は今仕事が立て込んでおりまして、彼女に構っていられないのです。その間だけで結構ですので、彼女をお任せ出来ないでしょうか」
「は? いや、お前が仕事が忙しいのはわかっている。だが、それとこれとは――」
反論しようとする元譲に、文若は大きな溜息をついた。
「……丞相にお任せするわけにはいかないんですよ」
「……そ、それは、そうだが……」
切り札のように出された名前に、元譲は怯んだ。
確かに孟徳に彼女を預けてしまうわけにはいかないということは、彼にも理解が出来る。だが、だからといって自分が預からないといけないという理屈も間違っているとは思う。
いつもならば、文若ごときに負けたりはしないと自負している元譲だったが、今回ばかりは思うように頭がまわらない。
花という存在は、元譲にとってどう扱ってよいのかわからない存在だった。
「では、お願い致します」
「お、おい、文若!」
そうこうしている間に、文若はさっさと揖礼し踵を返していた。
引き止めようにも、今の元譲には言うべき言葉が見つからず、伸ばした腕は自然に下りていくのだった。
「……どうしたもんだ」
自室を出た時よりも頭を悩ませ、元譲は再び自室の扉の前まで戻ってきていた。
彼女が自分の部屋へ来ている理由はわかった。きっと、早い時間から来ていて待ちくたびれて眠ってしまったのだということも想像がつく。
けれど、この扉を開けて彼女がまだ眠っていたとしたら、自分はどういう行動を取ったらいいのかということは、まだ元譲にはわかってはいなかった。
自室の扉を睨んだまま考え込んでいると、不意にその扉が音を立てて開く。
「あ、おかえりなさい、元譲さん!」
元気な声と共に、今まで頭を悩ませていた人物が転がるように自室から出てきた。
柔らかそうな頬にうっすらと残るのは、きっと机のあとだろう。
それを見た瞬間、元譲の肩から力が抜けた。
「仕方がない、ほんの少しの間だ」
「え?」
「いや、なんでもない」
決意の言葉は小さすぎて、花の耳には届かなかったようだ。
元譲は咳払いを一つし、本来の自分の余裕をほんの少し取り戻す。
「文若から聞いている。これから俺の仕事を手伝うんだな」
「あ、はい、そうなんです。宜しくお願いします」
「あー……。とりあえず、今日の仕事はもうない。明日の朝から来てくれ」
「はい!」
ぴょこんと元気よく頭を下げる花を見ながら、元譲は困ったように頬をかいた。
翌日から、言葉通り花は元譲の仕事を手伝った。
文官の文若と違い、元譲の仕事は自室での雑務に加え部下の鍛錬なども入ってくる。しかし、過去のこととはいえ花が元譲軍を破った軍師であることは事実であり、そんな彼女を部下のいる場所へ連れて行くのは気がひけた。
やむなく、鍛錬の時間は花は元譲の部屋で待機させることにしたのだが、そこで初めてこの少女が文若の言葉通りの役立たずではないということを元譲は知った。
「……字が読めないのではなかったのか」
濡れた布を手渡され汗をかいた首筋を拭きながら、元譲はきれいに整理された机の上を見た。
出掛ける前には散乱していた竹簡が、分類されて置かれている。それだけではなく、掃除もしてくれたようでそこかしこがやたらときれいになっていた。
「難しい字は読めないんですけど、私の国にも同じ字を使うことがあるんで何となく意味のわかる字もあるんです。あと、ある程度は文若さんに教えてもらったんで、表書きの分ぐらいは何とか……。あ、でも、とりあえず分けただけなんで、後でチェックしてくださいね」
「……ちぇっく……」
「あ、えと、点検、お願いします」
花に言われるまま竹簡を見るが、そこに間違いはなくきちんと分類されていた。
元譲は根っからの武人で、細かい仕事はどちらかといえば苦手だ。しかし今の地位になってしまってからは、苦手だからと逃げるわけにも行かず、何とかこなしてはいる。だがすればするほど部屋が散らかるのは止められず、いつも文若に苦い顔をされてしまうのもまた事実だった。
それが今日は、帰ってみると部屋中がすっきりと片付いている上に、戻ってきた元譲に花は水で濡らした布と飲み物まで用意していてくれていたのだった。
「……お前……」
「え?」
「……いや、何でもない」
なぜ文若のところを追い出されたのか。その言葉は喉の奥に引っかかり外へ出ようとはしなかった。
誤魔化すように、渡されたばかりの水を一気に飲み干した。それはとてもよく冷えていて、自分が帰ってくるのを察知した彼女が急いで準備してくれたことを現していた。
苦い気持ちは変わらず胸の内にあるが、それと同時に妙に温かなものがそこへ流れ込んで行くのを元譲は感じた。
それから数日、花は変わらず元譲の下で仕事をしていた。些細な仕事ばかりだが、そのどれもがそこかしこに気遣いを感じさせるものばかりだった。
「……退屈ではないのか」
「え?」
「俺のような男の下で仕事をするのは、退屈ではないのか」
「うーん、元譲さんがあんまりおしゃべりしてくれないからってことですか? それなら、文若さんもおしゃべりされないですし、一緒ですよ」
にっこりと笑う花に、元譲も思わず釣られて口角を上げる。
ぽかんとした花の表情で、今自分がどんな顔をしてしまったかを自覚し、元譲は手で口元を覆った。
自分の顔が相手に――ましてや、こんな少女にどんな風に映るかなどよくわかっている。怖いと泣かれたこととて一度や二度ではない。
笑顔が更に凶悪だと言ったのは孟徳だったが、それが間違いではないことは自分が一番よくわかっていた。
しかし、彼女はただの少女ではなかった。驚いた顔を次第にほころばせ、最終的には蕩けそうな笑顔になる。
「わぁ、元譲さんが笑ってくれた……!」
「は? いや、俺が笑うなど……」
「嘘! 今ちゃんと笑ってくれましたよ。嬉しい……」
「!」
がしっと手を握られ、何度も上下に振られる。
この小さな体のどこにそんな力があるのかと疑いたくなるほど、彼女の手は力強かった。
「あ……ご、ごめんなさい、つい嬉しくて……」
「嬉しい?」
「はい。ずっとお話したかったんです。……謝るなって言われてからずっと……」
「……お前」
握られた手から少しずつ力が抜けていく。それでも花の手は元譲の手から逃げることはない。
俯いてしまった彼女の顔は元譲の高さからは表情が伺えなかった。
「ずっと、気にしていたのか」
それは、花が孟徳に拾われてすぐのこと。自軍を壊滅に追い込んだ軍師は、そのことを後悔するかのように傷ついた顔をして謝った。
その態度こそが苛立たせるとわからない彼女に「謝るな」と告げたのは確かに自分だった。
花はあれからずっとそれを気にし続けていたのだろう。
そこまで考えると、文若が急に彼女を預けたわけがわかったような気がした。
花は孟徳軍で居場所を持ち始めている。寝返ることなど珍しくもない世界だが、彼女がそのことで苦しんでいる様子もうっすらと感じ取っていた。
玄徳を裏切ることが大きな原因だろうが、元譲軍との戦いのことも一因となっているのも周知の事実だった。
彼女はそれを乗り越えるために自分のところへと来たのかもしれない、と元譲はそう思った。
「気にするなとは言わん。俺だって忘れるわけにはいかない。だが、お前がここにいると決めたのならばそれを乗り越えていかなければならんだろう、俺もお前も」
「……元譲さん……」
ぽたりと、元譲の手に熱いものが落ちた。それが花の涙だということに気付いた時には、もうすでに彼女を抱き寄せていた。
「げ、元譲さん……!」
「泣くな。俺は孟徳と違って女の扱いはわからん」
憮然とした言葉の通り、それは抱きしめるというものではなく、花の顔を自分の着物に押し付けているという状態だった。
きっと相手が孟徳ならばもっと上手に泣き止ませるだろう。いやそもそもあいつがこんなことで女性を泣かせるわけはない。
そう考えると、不思議と胸の奥が焦げたように熱く痛くなった。
その意味をあえて考えようとはせず、元譲は花の頭を撫でる。彼女の頭はやはり小さくそして手に当たる髪の毛は柔らかだった。
「……明日からも、ここに来ていいですか?」
「当たり前だろう。お前の仕事なのだからな」
何とか声を上ずらせないようにそう告げると、密着したままの花は嬉しそうに笑い、元譲の着物を握り締めた。
その、瞬間。
「元譲殿、この竹簡なのですが――……」
「ぶ、文若……っ!」
扉を開けて入ってきたのは、予想しなかった姿だった。
文若は細い目を見開き、竹簡を手にしたままの姿で固まった。
「文若さん、え、あ……っ」
「お、おい、急に動くな!」
慌てて飛び起きた花は体勢を整えきれずよろめいたので、元譲は思わず彼女の手を握りしめ引き戻そうとした。
しかし勢いが良かったため抱きとめる形になってしまい、結果としてはただ密着していただけの時よりも更に悪いものになってしまった。
「文若、誤解するな、これは……!」
「…………」
見たことがないくらい目を見開いた文若は、ひどく固い動きで揖礼しその姿勢のまま静かに部屋を後にした。
勿論そのことが公になることはなかったが、なぜか孟徳がにやにやと嫌な笑いで元譲を見ていることが増えた。
それと共に花の仕事場が正式に元譲の傍となったのも、偶然ではないだろう。
周りからの視線に、そんなつもりはないと説明したい衝動に駆られることも多々あったが、花が嬉しそうに自分の下へ来るのを見るたびに、否定の言葉は飲み込まれていったのだった。
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もっと書きたかったんですが、まとまらず中途半端に。またリベンジしたいなぁ。元譲さんはかっこいい