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風の過ぎた後に
がたがた、がたがた。
家全体を揺らす風の音は強く、激しい雨音は薄い屋根を破るのではないかという勢いだった。
その中で、鈴花はただひたすらじっと座っている。
吹き荒れる風の中で彼女の出来ることは何もない。
ただじっと耐え、この風が止むのを待つのみ。この打ち付ける雨が上がるのを、待つのみ。
止まない風はない。上がらない雨もまた存在しない。
どんなに激しい風もその勢いはいつかは収まり、水の底に沈むのではないかと思うような雨もいつかは止み、そして晴れ間は必ず来る。
――戦だって、いつかは終わるのだから。
ただ戦と違うのは、この風雨の中で自分が出来ることは何もないということ。
戦であれば、刀を取り戦うことも出来る。けれど、この自然の脅威の中では人間はただ無力なだけだった。
鈴花は、ぐっと歯を食いしばる。
この大風は、彼女の心をも荒らしていっていた。
どれぐらいそうしていただろう。物思いに沈んでいた鈴花には、時間の感覚がなかった。
ただ気がつけば、家を揺らしていた風もなくなり屋根を叩く雨の音も消えていた。
握り締めていた拳を解き、つめていた息を吐く。知らず知らずのうちに瞬きを忘れていたのか、一度目を閉じると眼球の奥がじんわりと痛んだ。
先ほどまで家全体を揺らしていた風は収まり、今は物音一つ存在しない。
鈴花はゆっくりと立ち上がり、緊張しきっていた体を解す。ばきばきと軽い音が響き、自分がどれだけ固くなっていたのかを知り、思わず小さな笑みがこぼれた。
「もう大丈夫……かな?」
そっと呟き、風で飛ばされぬように戸板を抑えていた木の棒を外した。
本来ならば、戸板を打ちつけた方が良かったのだろうが、そんな余裕は鈴花にはなかった。
それに、打ち付けてしまったら万が一彼が帰ってきた時に家の中に入れなかったら困るのだ。
「帰って来なかったから、今となっては打ち付けておけば良かったって思うんだけどね」
小さく呟きながら、がたがたと戸板を開ける。激しい風雨により多少変形してしまったそれは、思うように動かなかった。
力任せに引き嫌な音を立てながら戸が開くと、湿った雨の匂いのする空気が室内へと流れ込んだ。
昨日から降り続いた雨、吹き荒れた風は跡形もなく消え去り、空にはくっきりとした輪郭の月が浮かんでいる。
数日前から低く垂れ込めていた雨雲は、風邪と共になくなってしまったようで、久しぶりに見る美しい月に鈴花は目を細めた。
台風一過。ようやく落ち着ける夜が迎えられた。
秋の大風は毎年のことだが、今回のものは思ったよりも短くそして同時に激しかった。
外に出てみると、それがよくわかる。
秋色の草花が無残に散り、家の瓦や木切れがあちらこちらに散乱しているのだった。
鈴花の住む決して丈夫ではない家が無事だったのは奇跡と言えるだろう。
ほっと息をつき、明日の朝の掃除が大変だと肩をすくめると、向こうの方から走ってくる人影が見えた。
ぬかるんだ道も気にせず駆けて来るその姿に、鈴花は思わず目を疑う。
まさか、こんな刻限に戻ってくるなんて。
「斎藤さん……!」
彼が何度名前を変えても、そして自分の位置が彼の一番近い所に来ても、中々呼び名が変えられない。
思い入れの強すぎるその名を呼べば、駆けて来る姿は一層速さを増した。
「大丈夫、だったか?」
鈴花の前まで全速力で走ってきた斎藤は、開口一番そう尋ねた。
どれくらい走ったのだろう。寒い夜であるにも関わらず、彼の額からは滝のように汗が流れ落ちている。
「……どの辺りから走ってきたんですか?」
鈴花は懐紙を取り出し、斎藤の汗を拭う。拭っても拭っても玉のように浮き上がるそれは、斎藤がどれだけの距離を走ったかを物語っているようだった。
「最初からだ。……本当は昨日のうちに帰りたかったんだが……」
悔しそうに呟く斎藤に、鈴花は小さく笑みをもらした。あの激しい風雨の中、帰宅しようとするのは自殺行為だ。
きっと幾人もの人間が、彼の行動を止めたのだろう。その苦労を思えば笑うどころではないのだが。
「大丈夫だったのか?」
再度の問いに、鈴花は小さく頷いた。
小さな家なので瓦の一枚や二枚は飛んでいるだろうが、住めなくなるまでの被害はないし川の氾濫もなかったようで水にも浸かっていない。
鈴花はそう答えたのだが、斎藤はそれが気に食わないようで眉根を寄せた。
訝しむ鈴花の唇に、斎藤の指がかかりそのまま上を向かされる。
「斎藤さん?」
「……唇に痕がついている」
「え?」
「噛みしめていたんだろう?どこが大丈夫なんだ」
溜息交じりのその言葉で、鈴花は自分の唇を痕がつくまで噛みしめていたことに気付いた。
体を固くしていた自覚はあったが、そこまでひどいとは思わなかったのだ。
思わず自分の唇に手を当てる鈴花に、斎藤はまた一つ溜息を漏らし彼女の肩を抱いて家の中へ入っていった。
暗い室内に灯りをともすと、今まで暗闇に沈んでいた場所がうっすらと見えてきた。
瓦が飛んでいる程度だろうと高を括っていたが、やはりそれは甘く今まで気付かなかったが至るところが雨漏りをし、古い畳を更に湿らせていた。
「うわぁ……」
ここまでなっているのにも気付かなかったとは、と自分のことながら呆れてしまう。
全ての戦を終え死と隣り合わせの日に別れを告げて、斎藤と二人平穏な暮らしを始め一年がたとうとしている。
決して豊かとは言えない生活の中で手に入れた家は、古く吹けば飛ぶようなボロ屋だった。
何とか手入れをして補修を重ね、言葉どおり吹いても飛ばない家にはなったが、それでも台風での被害は大きなものだったらしい。
鈴花は、家の惨状に大きな溜息をついた。
明日の掃除が今から思いやられる。
そんな彼女を、斎藤は後ろからふわりと抱きしめた。
鈴花が訝しげに首をめぐらせると、そのまま頬に手を置かれ唇が合わせられる。
不自然な姿勢での口付けは、不思議と優しさを感じられるものだった。
「斎藤さん……?」
「すまなかった。こんな夜に一人にしてしまったな」
小さく呟いた斎藤の唇は、再度鈴花のそれに重なる。
先程痕がついていると言われたそこを癒すかのように、温かな舌が丹念に辿っていく。
「辛かったんだろう?……風の強い夜は、おまえはいつも唇を噛みしめている」
斎藤の言葉に、鈴花ははっと顔をあげた。
「……俺が気付いてないと?いつから一緒にいると思っている」
「……いつから……」
「新選組に居た頃から、大風の日は辛そうにしていただろう。最初の頃はただ風の音が怖いようだったが、段々と何かに耐えるようになってきていたな」
斎藤の言葉に、鈴花は俯いた。
昔は、何て女心のわからない人なんだろうと思っていたのに。
それでも、あの頃から自分の心の機微には気付いてくれていたことを知ると、思わず目が熱くなった。
風の強い日は苦手だった。
怖がる必要などないとわかっていても、唸るようなあの音が何かの声に聞こえてしまい小さな頃は本気で震えていた。
新選組に入ってからは、風の音が人の声に聞こえるようになった。
剣で身を立てるという意味も新選組という組織の役割もよくわかっていたし、自分の進んだ道に後悔はない。
それでも、強い風の音が鈴花の心のうちを乱していったのも、また事実だった。
風の音は、昔のことを嫌でも思い出させる。
それは斬り合いの音であったり、人の声であったり。懐かしいもの、寂しくなるもの、自分を責めるものとその種類もまばらだ。
それを思い出すのは辛い。けれど、決して耳を塞いではいけないと鈴花は思う。
前を向いて生きる為にも、耳を塞いではいけない。
だからこそ、鈴花は歯を食いしばり拳を握って耐えていたのだった。
「……お前らしいな」
理由を聞いた斎藤はふっと柔らかな笑みを漏らした。
後ろから包み込むように抱きしめる斎藤の腕は温かく、鈴花の心を優しく癒す。
「一人で耐えることはない。その声は何も責めるだけのものではないだろう。……大風の日は、一人になるのはよせ。俺が傍にいてやるから、風の音を怖がらずに聞いてみろ」
そこまで言い、斎藤は口を噤んだ。
鈴花がそっと後ろを向くと、その顔は険しいものへと変わっている。
「斎藤さん?」
「本当は、今回も早く帰るつもりだった。それを、危ないとか抜かして止められた。俺の仕事はもう済んでいたというのに」
ただ止められただけで、この男がきくわけもない。
彼の同僚がどんな手を使って止めたのか、鈴花は聞くのが怖くなった。
元・新選組三番隊組長を止めるのだから、生半可なことではなかっただろう。そして、きっと止めた人間も少なからず何かしらの被害を受けたはずなのだ。
明日には、彼の職場に詫びの品を届けよう、と心の中で呟いた。
「それでも、こんな嵐の中を帰ろうとしてくれたんですね」
激しい風雨の中もしかしたら帰ってきてくれるかもと少しは期待していたが、まさか本当に帰る気でいてくれていたとは。
鼻の奥がつんと痛み、目頭が熱くなる。
そんな鈴花を、斎藤は正面から抱きしめなおした。そして、そのまま再度唇を重ねる。
合わせるだけの口付けは何度も角度を変え、次第に深くなっていく。
「ん……ん、ふ……っ、さ、いとうさん……!」
彼に身を任せるだけだった鈴花は、大きな手が頬を撫で首筋を滑り胸元に到達した所で慌てて身を起こした。
こんな天地がひっくり返ったような状態の家でそれ以上の行為をするのは、さすがに気が引ける。
だが、そんな鈴花に目の前の男はにこりともせず宣言した。
「おまえが寂しくないように、俺が帰れなくても一人にならないように、家族を作らないといけないだろう」
何もそんな今すぐじゃなくても、という鈴花の抗議は斎藤の口内へと消えていった。
今年の嵐は、二人の頭上を通り過ぎた。
鈴花の心を乱した風の音はもうなく、ただただ愛しいものの鼓動が聞こえるのみ。
これから先も、風の声で過去の思い出が蘇る事があるだろう。それでも、これからは耐えるだけではなく懐かしむ事も出来るはずだ、とそう確信できる。
風の止んだ家の中で温かな腕に抱かれ、鈴花はようやく安らかな息をつくことができたのだった。
モドル