季節は、巡る。
毎年この時期になると、母は雛人形を出す。
この日、というのはないらしい。
ただ、朝の冷え込みが少し緩み空が青く澄み渡る晴れた日に、出す気になるらしい。
そして、今年も。
青い空が広がり暖かな風が吹く今日に、母は押入れから雛人形を出していた。
我が家には、雛人形がたくさんある。
毎年一対ずつ増えていくのだ。
しかしそれは、他の家で見るような煌びやかな衣装をつけているものではない。
木で彫ってある素朴な人形だった。
しかしよく見れば、その顔は穏やかな笑みを浮かべているのが見える。胴体も衣装の襞が細かく彫られ、美しい模様さえも見え隠れしている。
とても木とは思えない緻密で繊細なこの人形達は、近所でも有名だった。
いつぞやは人形の噂を聞いて、売って欲しいとどこかのお嬢様が来たこともある。
そのお嬢様だけではない。人形問屋や収集家などが来たことも。
しかし、母は人形達を売ろうとはしなかった。
僕などは「毎年一対ずつ増えるのだから、別に売っても構わないだろう」と思うのだが、母はそうは思わないらしい。
今年も、油紙に包まれた雛人形を嬉しそうに出している。
一番新しい人形は、玄関の目立つところへ。その他は、外にも見えるように縁側に即席の雛段を作って並べてある。
「母上、今年の人形はそれですか?」
「ええ。ふふ、年々手の込んだものになってくるわね。出来上がるまで見せてくれないから、今年もびっくりしてしまったわ」
母は、まるで娘のように頬を染める。
いつも可愛らしい人ではあるが、雛人形を出すと本当に小さな女の子に戻ってしまうようだ。
「母上は、本当に雛人形がお好きなんですね」
「ええ。この季節になるとどうしても出したくなるの。……あなたは、あまり気分の良いものではないしょうけど」
「別に構いませんよ。誰も僕のための雛人形だとは思わないでしょうし」
我が家には、子どもは今のところ僕一人だ。
父も母も、女の子が欲しかったなどとは言わない。ましてや、僕が女の子ならばとは絶対に言わない。
普段は別段そんなことを思っている節もないのだが、雛祭りが近づくと何だか自分が男であることが申し訳なく思えてしまう。
女の子がいたならば、母もきっともっと雛祭りを楽しめたかもしれないのに、と。
「なんて顔をしているの」
こつん、と母が頭を軽くはたいた。
思った言葉は口から出ていないが、どうやらそれは表情に出ていたらしい。
顔を上げると母が困ったように笑っているところだった。
「あなたはあなたでいいのよ」
「…はい…」
「それにね、この雛人形は父上が私の為に作ってくれたものだから、私が私の為に飾らないといけないのよ」
「……父上が、母上の為に……」
脳裏に浮かぶのは、無表情な父の顔。
いつもは仏頂面で、眼光が鋭く子どもには怖い顔だ。
けれど、母を見つめるその目は優しい。時折、ふっと蕩けるような顔になることもある。
僕の視線を感じて、真顔になるのは見ていて面白い。
なかなか態度には表さないけれど、父は間違いなく母を愛しく思っている。
その証拠が、この雛人形だろう。
近所でも有名なこの木彫りの雛人形。
これは、一見不器用に見える父が作ったものだった。
母の為に、毎年一対ずつ。
いつから贈り続けているのだろう。その数はかなりのものだ。
母は、毎年増えるその人形を、一つ残らず飾っている。
嬉しそうに、微笑みながら。
新しいものから順番に飾っていき、最後の包みはより一層丁寧に取り出す。
そして、我が家の床の間には、奇妙なものが飾られるのだ。
木の人形。
鼻が斜めに曲がり、口は片方が釣り上がっていて、小馬鹿にしたようにも見える。そして何よりもその目が、――……。
出来損ないの仏像か。それよりも、呪いの人形の方が近いかもしれない。
そんな人形を、何よりも大事そうに母は飾る。
「何も、そんな人形まで出さなくても良いじゃないですか」
「いいえ。これを出さないと意味がないのよ。これは、私の一番大事な雛人形なのだから」
母は、そう言って人形を抱きしめる。
呪われるのではないかと気が気ではないが、そんな母を父が嬉しそうに見ているから何も言えない。
巷には、美しい衣装を纏った白い顔の雛人形が溢れている。
けれども我が家には、素朴な木の雛人形が飾られる。
奇妙にしか見えない顔のものも、父が丹精込めて作ったことと、母が愛情をこめていることで、何よりも輝いて見える。
雛祭り。
我が家には子どもは僕一人だが、その行事はどの節句よりも華やかに感じられる。
優しい父の眼差し。母の嬉しそうな顔。
それらを見るだけで、僕も心が温かくなる。
でも。
あの雛人形だけは、僕はどうしても触れない。
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