君に似たもの

 伸びをする。勢いをつけて跳び上がる。そろりと歩く。欠伸をする。

「……………」

 そして、ひっかく。






「斎藤さん、その顔の傷どうしたんですか……?」

 いつもと違う斎藤の顔に、鈴花は思わず手にしていた箒を落としてしまった。
 まじまじと見るとさすがの彼も気分を害してしまったようで、ぷいと顔を背けてしまう。
 しかし、その横顔にもくっきりと見える赤く腫れた線。
 これは俗に言うミミズ腫れではなかろうか。
 端整な顔に走る赤い線は一本どころではない。
 戦いにおいても目立つ傷を作らない斎藤が、顔にこんな大きな傷を作るとは。
 しかもそれは到底戦いで得たようなものではない。

「あの、斎藤さん?」
「……気のせいだ……」
「は?」
「傷があるように見えるのは気のせいだ」

 そんなわけないでしょう!
 はっきりと言い切る斎藤に鈴花は思わず声を張り上げた。しかし斎藤はその言葉どおり何でもなさそうに草履を脱ぎ、さっさと自室へと引き上げてしまった。
 鈴花に隠すように顔に手をやっていたのは、きっと見間違いではないだろう。

「……あれって……ひっかき傷?」

 その背を見送り、鈴花はぼんやりと呟いた。
 赤く腫れ上がった傷は、到底刀傷ではない。
 小さい頃、稽古で竹刀が体に当たった時もミミズ腫れが出来たものだが、あんな傷を伴うものではなかったし、もっと太い線になっていたはずだ。
 その上あの斎藤が顔に竹刀を受けるとも思えない。
 そうなれば思いつく原因は、誰かにひっかかれたということだけなのだが。

「…………」

 一体誰に。
 それを考えると、鈴花の頬はぷっくりと膨らんだ。
 斎藤の顔に傷を残せる。否、傷を付けられる事を斎藤が許したと言った方が正しいのかもしれない。
 そうでなければ、あの切れる三番隊組長がやすやすと傷を作るわけがない。
 斎藤の顔に傷を作ることが出来る人物。
 きっとそれは女に違いないだろう。
 それを考えると、鈴花の頬は更に膨らんでいくのだった。







 じっと待つ。体全体で喜びを表す。吠える。

「…………」

 そして、噛み付く。






「斎藤さん、その手の傷どうしたんですか……?」

 まだ顔の引っかき傷も癒えきらぬうち、斎藤は手から血を流して帰ってきた。
 これが巡察の後ならば納得もいくが、今日は非番だったはず。
 血気盛んな若い連中と違い、斎藤がただ絡まれただけで刀を抜く事はない。
 しかも、怪我を負わされたとなると相手は一体どんな手練なのか――。
 そこまで考えて、鈴花は顔色を失くした。
 
「さ、斎藤さん……」
「……別にたいしたことはない」
「けれど……!」

 鈴花の悲愴な叫びで、斎藤は何かに気づき自身の手を見つめた。
 怪我をした手は手ぬぐいで無造作に巻かれている。そこからはまだじんわりと赤い血が染みだしていたが、怪我の具合までは見て取ることは出来なかった。

「……刀傷じゃない。大丈夫だ」

 安心させるように用意した言葉だったが、鈴花は更に目を見張った。
 刀傷ではない傷を、どうやって作ったのか。
 彼女の大きな目がそう叫んでいるように見え、斎藤は更に思案する。

「いや、刀傷ではないが、そうでもない」
「は?」
「そもそも傷などはない」
「……はぁ?」
「気のせいだ」

 そんなわけないでしょうという言葉すら口に出来ず、鈴花は呆れたように口を開けた。
 そうこうしているうちに、斎藤は手ぬぐいから染み出た血を落としながらさっさと草履を脱ぎ始めた。
 その足の先が山崎の部屋へと向かったのを確認して、ようやく鈴花は体の力を抜く事が出来たのだが――。

「あの傷……ただの傷じゃないよね……」

 先日の引っかき傷と今日の原因不明の傷、その二つを必要以上に隠そうとする態度が、鈴花の不安を煽った。
 斎藤は、強い。剣の腕だけではなく全ての事に関して強い。新選組に入る前のことはあまり知られていないが、平穏な道を歩んでいたわけではないことは彼の言動でうっすらとわかっていた。

「あの斎藤さんが、傍目にもわかるほど大きな傷を作るなんて……ただごとじゃないよね……」

 鈴花は拳をきつく握り締めた。






「え?ハジメちゃんの怪我?ああ、見た目よりは大したことなかったわよ。ただねぇ、やっぱり原因が原因なだけに変な風が入ったら困るからそれだけが心配なのよね」
「変な……風?原因って……」

 斎藤の怪我の具合を知りたいが、本人は教える気はさらさらない。
 そこで鈴花は、彼の怪我を診たであろう山崎を訪ねた。
 大したことはないという彼の言葉にほっと胸を撫で下ろしたのだが、風という言葉が気になった。
 大した怪我ではないが、ただの怪我ではないということだろうか。
 詳細を聞き出そうとしたその矢先、山崎はぽんと手を叩いた。

「やだ、忘れてたー。鈴花ちゃんには言うなって言われてたんだっけ。ごめんね、アタシも義理堅いからさ、これ以上は言えないわ」
「え、ちょ、山崎さん!」

 じゃあねーと手を振りながら逃げる山崎を見つめながら、鈴花は呆然とした。
 桜庭には言うな。
 山崎の言った言葉が斎藤の声となり鈴花の脳裏に響き渡る。
 それを聞きながら彼女の胸はじくじくと痛んだ。

「顔はひっかかれてくるし、血を流すような大怪我はしてくるし……!私には言うなってどういうこと?……やっぱり、ひっかかれたのは女の人にで、怪我は……」

 脳裏に浮かんだのは、女にひっかかれその情夫に斬りつけられる斎藤の姿。
 その瞬間、鈴花は冷水を掛けられたように寒くなった。
 良くない事が起こりそうな気がする。いや、もう起こっているのかもしれない。

「……斎藤さん……っ!」

 矢も盾もたまらず、鈴花は駆け出した。
 廊下を曲がったところで平隊士の一人に出くわしたので、首根っこを捕まえて彼の居所を聞き出すと、またしても出て行ったとの答え。
 鈴花はいよいよ顔色を失くす。
 斎藤が行く場所など知らない。彼に通う女がいるとも思いたくない。
 けれど悪い予感ばかりが胸を締め付け、鈴花の足を走らせた。








 甲高い声で鳴く。威嚇する。警戒心もあらわな態度で近づいて来る。

「…………」

 そして。

 斎藤は身構えた。前回と前々回は不覚を取ったが、今回こそは何とかしてみせる。
 剣を抜くわけにはいかないので、邪魔にならぬよう腰からそっと紐を外そうとした。
 その時。

「斎藤さん……!」

 予期しなかった声が辺りに響き渡った。
 斎藤の意識が一瞬そちらへ向き、対峙していた相手との視線がずれる。
 相手がその好機を逃すはずはなかった。

「……くっ……!」

 斎藤が思わず外しかけた刀に手をかけた時、そうはさせじと相手の凶器が彼の掌をついた。
 そこはまだ血の滲む手ぬぐいが巻かれたままで、斎藤は刀から手を離してしまう。
 
「斎藤さん!」
「来るな、桜庭!」

 斎藤が叫んだ時にはもう時すでに遅く、相手の猛攻撃が開始されたところだった。
 駆けつけた鈴花の目に映ったのは、いつも表情を崩さない斎藤が歯を食いしばり敵と対峙している、信じられないような姿だった。
 信じられないのは彼の姿だけではない。新選組の幹部を追い詰めるその敵は――。

「コケーッ!ココココココケーッ!」

 白い羽根を広げ黄色い足を振り下ろし鋭いくちばしは斎藤の怪我した手を執拗に攻める、トリの姿だをしていた。
 
「にわ、とり……?」

 三番隊組長は、にわとりと戦っていた。







「で、どういうことなんですか?」

 斎藤の腕のあちこちにあるつつかれた痕を、鈴花は濡れ手ぬぐいでそっと押さえた。
 触る度に腕が小刻みに動くが、そんなことは無視して鈴花は手当てを続けていく。

「……どういう……」
「もう気のせいとかいう言い訳は聞きませんからね。この目で見ちゃったんですし」
「…………」

 斎藤はふいと視線を逸らし暫しの間黙り込んでいたが、観念したのか重い溜息とともに口を開いた。
 言いたくなさそうな態度に鈴花の頭にちらりと女と情夫の文字が浮かんだが、にわとりにつつかれた傷跡を見るとその可能性は低そうだった。

「……おまえに、似ていると言われたんだ」
「は?」
「永倉さんや原田さんが、おまえは動物によく似ていると……」
「はぁ?」

 よくわからない理屈に鈴花が目をむくと、斎藤はまたしても溜息をつき言葉を選んで話しはじめた。 
 その内容は、やはり鈴花の想像とはかけ離れたものでまさに開いた口がふさがらないとはこういうことなのではないか、と彼女は頭を抱えたのだった。
 曰く。

「事のはじまりは、おまえの言葉だ」
「言葉?」
「おまえを理解しろ、と言っただろ」
「……はい?」

 急に口づけをされ、斎藤の心を知ったのはつい数日前のこと。
 その時確かに、理解してくださいと叫んだ気はするが、それは乙女心を理解して欲しいと訴えたつもりだったのだが……。

「色々考えたんだが、俺だけでは考え付かずあの二人に聞いた」
「……一体何て聞いたんですか……?」
「桜庭に似たものとは何かと聞いた」

 いくらあの二人とて、にわとりを観察して乙女心を研究しろとは言わないだろう。
 鈴花は眩暈を覚えた。
 何故そんな婉曲な聞き方をしてしまったのか。
 そう尋ねると斎藤はばつの悪そうな顔で下を向き、言いにくそうに呟いた。
 
「……そのまま言えば、面倒な事になると思った。だから……」

 似たものを聞き、それを観察すれば理解出来るのかもしれない、斎藤はそう思ったらしい。
 そして言われたものを一つずつ観察していった結果がこの傷ということになる。
 そこまで聞いて、鈴花はふと我に返った。
 では、今までの傷も「自分と似た動物」の仕業ということだろうか。
 恐る恐るそう聞くと、斎藤は小さく頷く。その瞬間に、鈴花の頭にあった「女と情夫」の図は空の彼方へ飛んでいった。

「猫と犬とにわとりに似ていると言われた」

 永倉さん、原田さん……!
 検討違いと思いつつも鈴花は拳を固く握り締め、これが解決したらあの二人にきっちりその理由を説明してもらおう、と心に決めたのだった。

「だから猫と犬とにわとりを観察したんだが……俺は動物には好かれない質らしい……」

 斎藤はしゅんと肩を落としてそう呟いた。
 ただ見ていただけで犬や猫やにわとりは襲い掛かっては来ないだろうから、斎藤が何かをしたのは確かだろう。
 
「……俺は、やはりおまえには好かれないのかもしれない……」
「斎藤さん……」

 鈴花は小さく溜息をついた。
 自分と動物を一緒にしないでほしい。そう思うが。ここまで落ち込まれると怒る気も失せてくる。
 鈴花は俯いた斎藤の顔を覗きこみ、にっこりと笑った。

「私は私ですよ。似たものを観察するんじゃなくて、私を見てください。理解して欲しいのは私の心なんですよ?他のもので代用するなんて失礼じゃないですか」
「桜庭……」
「それに、私は何があっても斎藤さんを攻撃するなんて真似しませんしね」

 笑ってそう告げると、斎藤の顔が幾分輝いた気がした。
 はっと身構えた時には遅く、鈴花の体は強い力で抱きしめられた。

「さいと……ん……っ!」

 抗議の言葉は重ねられた唇に吸い込まれていく。
 無遠慮な舌が鈴花の咥内に入り込み、彼女の舌に吸い付くと甘い痺れが体を満たしていった。
 駄目だ、そう思うが抵抗するための腕は斎藤に抱きしめられているため動きそうにない。
 乙女心を理解してほしいと、自分の心を見て欲しいと言ったばかりなのに……!

「斎藤さん……!」
「これからは、おまえだけを見ていく……。これまで以上に……」

 唇を離し、嬉しそうにそう言った斎藤の顔を見ると、鈴花はまた一つ溜息をついた。
 彼に乙女心を理解させる日は来るのだろうか。
 しかし、鈴花は彼を悩ませることは非常に危険だということが今回の事で嫌というほどわかった。
 ここで何かを言ってまた奇怪な行動に出られてはたまらない。
 鈴花は斎藤に抱きしめられながら、また一つ溜息をついた。
 今回の騒動で気づいたのは、何も斎藤の事ばかりではない。鈴花自身とて、彼が他の女と何かあったのではと想像した時、焼け付くような想いがあったのもまた新たな発見だった。
 
「桜庭?」
「……何でもありません。そろそろ離してください」

 赤い顔を見られまいと、鈴花は抱きしめられる力が緩んだ隙をみて素早く離れた。
 名残り惜しそうな斎藤の顔が視界の端に映ったが、これ以上は好きにさせられない。

「乙女心は複雑なんですよ。外でこんなことされるのは嫌です」
「……外は駄目なのか……」
「中でも人がいたら駄目です!」
「……人がいなければいいのか……」
「いなくても駄目です」
「ではいつならいいんだ」

 斎藤の声がまた沈んでいく。
 鈴花は、笑いそうになる顔を押さえて振り向いた。
 ぴしりと人差し指を立て、宣言する。

「いいか悪いかは、私を見て判断してください。それがわからなければ、斎藤さんは私を理解出来ていないということですよ!」
 
「桜庭……」
「さ、帰りましょう。日が暮れちゃいますよ」

 またしても顔が赤くなりそうなので、鈴花は斎藤に背を向けた。
 目の前に見える日は山の傍へと傾いていた。
 白い雲が薄赤く染まっていく姿を見つめ、鈴花は大きく足を踏み出した。
 
 
 彼に乙女心を理解するのは難しいかもしれない。
 けれど、時間をかけてでも知っていってもらいたい。


 そう思う心こそが乙女心だということは、当の鈴花もまだ気づいてはいなかった。

















モドル