星空の下で
はぁ……。
小さな溜息が風となって空へ上がっていく。その先には零れ落ちてきそうなほどの星が瞬いていた。
広い広い夜空。そこに浮かぶ星々はどの景色よりも美しく輝いているように見えた。
見慣れた夜空――京の花柳館の屋根で見上げた星空はこんなに華々しい輝きを放っていただろうか。
あの時見上げた空も広かったが、今の非ではない。京の空はまるで切り取られた絵のようだったのに比べ、ここの空は広い。
どこまでも続いているかのように広く、目に痛いほどまぶしい。
ここは、京ではない。
住み慣れた場所ではなく、遠くへ来たのだということを実感する空だった。
倫は、中村半次郎と共にあるべく彼について薩摩へ来た。
彼と共に人生を歩み、苦楽のすべてを分かち合うために。
太陽と共に目覚め田畑を耕し、星に抱かれて眠る。彼との生活は今まで経験してきたことなど爪の先ほども役に立たない、新しい世界だった。
無論、嫌であるはずもない。
経験のない畑仕事では手に豆を作り、使ったことのない筋肉を酷使した為何日も体が悲鳴を上げていた。
けれどその分、心に感じる充足感は何者にも代えがたいもの。
自分は生きている。この大きな自然とともに生きていると、そう実感出来る暮らしは喜びすら感じるものだった。
「こんな綺麗な空なら、明日も晴れるかな」
そっと呟けば、答えるかのように星が瞬いたような気がした。
「……倫?ここにいたのか」
心配そうな声が後ろから聞こえ、倫は振り返る。低く優しいその声は振り返らずとも誰のものであるかはわかるが、それでも声を掛けられれば嬉しくて振り返ってしまう。
心もとない星明りの下でも、はっきりと見える大きな体。
自分と同じように湯を使ったのだろう、いつもは癖のある固い髪の毛が柔らかく額に落ちていた。
「半次郎さん」
呼ぶ声までもが優しい響きになる。最愛の夫は優しい笑みを浮かべて倫の隣に座った。
「こんな所でどうした?湯冷めをしてしまうぞ」
「ふふ、大丈夫ですよ。京と違ってこっちは暖かいですから」
そう言いつつも、倫は隣に座る夫の手を握った。
掌から伝わるのはごつごつとした手の感触。田畑を耕し剣を握る夫の手は、何よりも彼女の心を和ませた。
「半次郎さん、こちらの夜空は大きいですね」
「大きい?」
「はい。花柳館の屋根の上で見ていた空はもっと小さかった気がします」
「気のせいではないのか?大きさは変わらぬと思うのだが」
「いいえ、違いますよ……あ……」
くすくすと笑いながら喋っていると、倫の体は不意に抱きすくめられた。
畑仕事をしていても欠かすことのなかった異国の香水の匂いはしない。
風呂上りなのだから当然と言えば当然なのだが、いつもと違う香りのする夫の体に驚き、倫は思わず腕を突っ張った。
「あ……」
「……すまぬ……」
それを拒否と取ったのか、抱きしめる力はすぐに緩む。
しまった、と思った時にはすでに遅く中村の体は倫から離れていってしまった。
「半次郎さん、あの……」
「……今日はもう遅い。休もう」
「……あの……」
中村は口ごもる倫の手を取り立ち上がらせた。
微かに震えていたのはどちらの手だったのか――。
小さな家へ帰っていく一組の夫婦を照らしながら、星がきらりと光った。
次の日、中村は夜が明けきらぬうちから畑仕事を一通り終え、朝餉を食べるのもそこそこに野良着を脱いだ。
本日は従兄弟の別府共々西郷に呼ばれている為、出掛けなければならない。
その準備をするのも、中村は何かを思案するように押し黙ったまま。
手伝う倫も夫の様子を察してかいつもより口数が少なかった。
「お気をつけて」
「ああ。倫も戸締りをしっかりとな」
「はい」
何気ない言葉、何度も繰り返した出発の挨拶。
言いたいことは山のようにあるのに、何故かそれが言葉にならない。そもそもそれは本当に言うべき言葉なのか、それすらも今はわからない。
得体の知れない焦りを胸の内に燻らせながら、中村は差し出された刀を受け取った。
一瞬自身の手に触れた、倫の指先は硬いまめが出来ていた。それは以前にはなかったもの。
夫婦になってから出来た畑仕事の痕だった。
中村の細い目が一層細められる。
漠然とした不安の一端が見えたような気がした。
「半次郎さん、何をぼーっとしてるのさ」
声を掛けられ、中村ははっと我に返った。
物思いに耽りながら歩いていたので時間の感覚がまるでない。
気づけばそこには別府晋介の姿があった。
「晋介、いつの間に……」
「は?いつの間にって何?俺、さっきからずっと半次郎さんの隣を歩いてたんだけど」
「……ずっと……」
「そう、ずっと。挨拶もしたし色々話しかけてたんだけど、気づいてなかった?」
ひどいなーと肩をすくめる別府に中村は小さく謝った。
これがまだ気心の知れた従兄弟であったので良かったと思いつつ、中村は盛大な溜息をつく。
「どうしたの?新婚さんにしてはやけに暗い顔だけど。何かあった?」
「……いや、何かというわけではないのだが……」
にやにやと笑いながら中村を肘でつついた別府だったが、彼の様子が思いの外沈んだものだったことに眉を顰めた。
彼としては、新婚特有の夜の事情やその為に生じる寝不足ぐらいにしか思っていなかったのだ。
「とりあえず話してみなよ。俺に何とか出来るとは思わないけどさ、何かの助けになるかもしれないし」
「……いや、特別何かあったわけではないのだ。ただこう漠然とした不安があるというのか……」
自分自身ですら理解出来ていない感情を、どう伝えて良いものか――。
暫し逡巡した末、それでも中村は口を開いた。
伝える事でこの大きな不安の塊の正体が見えるかもしれないと、そう思ったのだ。
「倫の手が、汚れていくのだ」
白かった、妻の手。
小さな頃から武芸を嗜んでいた為掌の皮膚は普通の女とは違って厚くなってはいたが、それでも甲は白く肌理も細やかだった。
それが、今では。
爪の間には水では取れない土が入り込み白かった皮膚を変色させ、南国の日差しに焼かれた肌は赤く染まっていた。
京の優しい陽で育った彼女の肌は黒くはなりにくい。それが一層痛ましく見えてならない。
本当に彼女をここへ連れてきて良かったのだろうか。
このような苦労をさせて良かったのだろうか。
毎夜眠る妻の寝顔を見ながら、そう自分に問いかけた。
そして、倫の目。
「目?」
「ああ。夜になると空を見上げる。飽くことなく見つめるその目が……」
不安、なのかもしれない。
中村はそう呟いた。
大きな体を丸めるその姿は、人斬り半次郎と呼ばれる人物とは思えない程弱々しいものだった。
それも、愛しい妻を思うが故と気心の知れた親友兼従兄弟の前だけだからなのだが。
「うーん、ようするに半次郎さんは、倫さんがかぐや姫みたいに夜空を見て月へ帰りたがってるように見えるんだね」
別府の言葉に、中村は静かに頷いた。
薩摩へ帰ってから今日まで、少しずつ積み重なってきた不安。
それは、都会育ちの倫を田舎へ連れてきてしまった申し訳なさと、彼女が京へ帰りたがっているのではないかという疑問だった。
倫が面と向かって京へ帰りたいと言っているわけではない。けれど、その言葉と行動の一つ一つがそう見えて仕方がなかった。
弱音を吐く中村を見つめ、別府はそうとわからないように息を飲んだ。
何事もそつなくこなしてきた従兄弟が。弱みなど一切見せなかったあの従兄弟が、女性のことでここまで悩むとは。
しかも、その悩みとて他人にしてみればさしたる問題ではないと思えるものであるのに。
人を恋うる気持ちとはこうも難しいものなのか、と別府は心のうちで呟いた。
「……杞憂って言葉、知ってる?」
「……は……?」
「あのね、とりあえず今俺が言えることは、今日帰ったらちゃんと倫さんと話をした方がいいってことだけだね」
「話なら……」
「してない。夫婦なんでしょ?ちゃんと自分の気持ちも伝えないと。かぐや姫は、本当は月になんか帰りたくなかったんだよ?」
「いや、しかし……」
「とにかく!」
びしっと目の前に人差し指を出され、中村は思わずひるんだ。
「ちゃんと話合わないと、かぐや姫は心がすれ違ったままで帰っちゃうことになるんだからね」
俺は竹取の翁ではないのだが。
中村のそんな言葉は、青い南国の空へ吹き飛ばされていった。
中村が帰宅したのは、辺りが暗闇に包まれ星が輝き出す時刻だった。
別府に言われた事が気にかかり早々に帰りたかったのだが、西郷直々に酒を勧められては無下に断る事も出来ず思いの外遅くなってしまったのだ。
ともすれば駆けてしまいそうになる足をなだめそれでも早足で我が家へと向かえば、星明りの下にぼんやりと映る影があった。
確認するまでもなく、それが愛しい妻の姿であるということはすぐにわかる。
待っていてくれたのだろうか。
胸がじんと温かくなるのを感じながら、小さく見えるその姿に近づいていく。しかし、うっすらと顔が見える距離になって中村は気づいた。
愛しい妻の顔が空を見上げ、微笑みを浮かべている事に。
それを認めた瞬間、温かかった胸の内がすっと冷え数日前より抱えていた不安の塊がその重量を増す。
軽かった足もとたんに鉛を付けたように重くなり我が家までの少しの距離がひどく遠くに感じた。
そんな中村の存在を感じたのか、夜空を見上げていた倫がふと顔を降ろした。
――かぐや姫は心がすれ違ったままで帰っちゃうことになるんだからね――
脳裏に蘇るのは別府の言葉。
しかし――空へ心を囚われていた時には神秘的に見えた妻の顔は、中村の姿を見つけたとたん輝くように微笑んだ。
それはもう手の届かない神人ではなく、見慣れた愛しい妻の笑顔だった。
「半次郎さん!おかえりなさい」
こぼれんばかりに笑う倫の姿に胸が締め付けられるように苦しくなり、中村はたまらず駆け出した。
先程足に纏わりついた鉛などどこかへ消え去ってしまうぐらいに走った。
早くしなければまた倫が月へと視線を移してしまうかもしれない、そう焦ったのだ。
笑顔から驚いた顔へと変わった彼女の様子を気にする間もなく、中村は柔らかな身体を力の限り抱きしめた。
その瞬間に立ち上ったのは、かつて自分が贈った香水の香り。
控えめにつけられたそれは、注意していなければ風に乗って飛んでいきそうに儚いものだったが、中村の心には深く届いた。
「……香水を、つけているのだな……」
「え?あ、はい……。なくなったらいけないと思って少ししか付けてないんですけど……」
「そうか……」
「半次郎さん?」
訝しむ倫を抱きしめ直し、中村はその髪に顔をうずめた。
身体からは中村の好む香水が立ち上っていたが、髪の毛からは太陽の香りがした。
照りつける南国の太陽の香りが、倫の中にも入っていたのだった。
「倫……」
「はい」
「薩摩が……好きか?」
問いかける声は知らず震えていた。
普段の中村を知るものならば想像出来ないぐらい、自信のない声音となっていた。
それを自覚しながらも、中村は問わずにはいられない。
薩摩が好きか、と。自分の故郷を愛してくれるか、と。
「はい、好きです。暑いぐらいの日差しも、優しくて逞しいこの地の人達も大好きです」
決死の覚悟で放った言葉は、いとも簡単に返された。
あっけらかんと言い放つ倫の口調に暗い響きはない。心からそう思っているのだということがすぐにもわかった。
中村は、ようやく体の力を抜く事が出来た。ほっとした、どころではない。ここ数日の不安が一気に抜け、へたり込んでしまいそうにもなる。
そんな彼の大きな体を支える羽目になった小さな妻は、腕の下であわあわと暴れている。
「倫、月へは帰ってくれるな」
「つ、月?」
「いや……空ばかり眺めているから、京に帰りたいのかと思ったのだ」
小さく呟けば、腕の中から倫が抜け出してきた。
そのまま中村の首に腕をまわし、そっと彼の唇に己のそれを重ねる。
「帰る場所は、京ではありませんよ。私の帰る場所はもう半次郎さんの下じゃないですか」
拗ねたようにそう言い、倫はもう一度唇を重ねてきた。
その柔らかな感触を味わいながら、中村は彼女の言葉を反芻した。
帰る場所。確かに、夫婦となったその日から自分達の家は一つとなっていた。それを忘れていたのは自分自身だったのか、と改めて気づかされる。
そんな彼に、倫は少し怒ったように続ける。
「空を見てたのは、こちらの空が本当に綺麗だからです。ただそれだけですよ?それなのに――」
そこまで言ったところで、言葉は途切れた。
これ以上聞きたくないとばかりに、中村の唇が倫の言葉を飲み込んだのだった。
自分の勘違いをこれ以上自覚させられてはたまらない。
今までの言動を誤魔化すかのように深くなる口付けは、次第に熱を帯びて来た。
角度を変えて何度も繰り返される口付けは、彼女の存在の再確認でもあった。
体を抱く力も徐々に強まり、ここが外だと忘れるぐらい互いを欲する。
頭の片隅で、さすがにこれ以上はまずいと警報が鳴り始めるまで、二人の口付けは続いたのだった。
「半次郎さん?」
蕩けそうな声で倫が呼ぶ。
中村はそっと腕の力を抜き、愛しい妻の頬に口付けを落とした。
まだ言っていない一言がある。
「……ただいま帰った」
南国の星空の下、不器用な夫婦は改めて互いの存在を大切に思ったのだった。
モドル