永倉の腕の中で、鈴花は荒い呼吸を繰り返す。
 無理をさせちまったかと、肩を落として反省する永倉に、何とか笑みを返せるぐらいの気力はまだ残っていた。
 しかし、やせ我慢が大半である事は早々に見抜かれ、鈴花の体は再び永倉の腕の中へと押し込まれる。
 頬に感じる暖かい他人の肌が、こんなに安心出来るものだとは思ってもみなかった。
 永倉があやすように鈴花の髪を優しくていくと、次第に鈴花の呼吸も幾分か穏やかなものになってきた。

「……大丈夫か……?」
「なが、くらさん……」

 愛しい気持ちを乗せて名前を呟けば、何故だか彼の表情は曇っていく。
 
「さっきは、名前で呼んだじゃねぇか」

 永倉に抱かれながら、鈴花は何度も繰り返していた。
 新八さん、と。
 それが今は元通りの苗字になっていると彼は言うのだ。。
 
「……そ、そうですけど……」

 鈴花の顔が赤く染まる。
 名前の呼び方が元に戻ってしまったのは、ただ単に恥ずかしかっただけなのだが、永倉はそれを許してはくれなかった。
 何しろ鈴花には、口付けを受けた後に他の人間に嫁ぐなどと言い出す前科があったのだから。

「……呼んでみろよ。もう一回」
「え……」
「鈴花。呼べって」
「し……新八さん……」

 呼んだ直後から、顔が赤くなる。
 そんな彼女を永倉は力強く抱きしめた。
 鈴花も顔を見られたくない一心で、素直にその腕に身を摺り寄せる。
 
「……本当に、俺で良かったのか……?」

 ぽつりとそんな問いが永倉の口から零れる。
 言葉の意味が理解出来ず鈴花が顔を上げると、そこには苦しそうに眉根を寄せた永倉の顔があった。

「おめぇが、自分でいいのかって聞いた時、俺もそう思ってた。本当に俺で良かったのか、本当に俺なんかが抱いちまっても良いのかって

 そこまで言うと、永倉は顔を隠すように鈴花を抱き寄せた。
 その表情はわからなくても肌を通して伝わる彼の鼓動が、内心の不安を鈴花に伝えている。

「……駄目だって言われた所で、離せるわけはねぇんだけどよ。だけど俺は、あの若旦那みたいに金も学もねぇ。……苦労させるだけかも
、しれねぇ……」
「……新八さん……」

 鈴花は永倉の背中に腕を回した。より一層強く重なり合う肌の中で、二人の鼓動が大きく響く。
 

「……幸せにしてやるって……胸を張って言えねぇんだよ……。そんな俺でもいいのか?」

 不安そうな、永倉の声。それは、いつも妙に自信に溢れた彼の意外な一面だった。
 それを垣間見ることが出来、鈴花は胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じた。

「……新八さんが……いいんです」
「鈴花……」

 ぽつりと呟いた声に、永倉がそっと顔を覗き込んだ。
 それに答えるように、不安を宿した瞳に笑顔を向けて鈴花は言葉を継いだ。

「……私は、新八さんと一緒に苦労したいです……」

 それが、鈴花の今の気持ちだった。
 思えば、彼と再会するまではひどくゆっくりと時間が流れていた。
 真綿のように優しいとした時間は、鈴花の心を癒してもくれたが、同時に本来の自分を眠らせてもいた。
 しかし、永倉との再会から時間の流れが急に速くなり、その変化に鈴花は溺れかけていた。
 ついていけないと、そう思った。
 けれど、その流れは本来の時間の流れ。
 遠い昔、新選組にいた頃の時間の流れ。
 それが、彼女の中に帰ってきた。
 新選組から離れた三年間、傷が癒えてからは生命の危険を感じることなどなかった。
 平和と言う名前のついた時間は、松本をはじめ様々な人に甘えて過ごした時間だった。
 けれど、その奥にはいつも葛藤があった。
 これで良いのか、と。
 確かに、永倉の言うように若旦那に嫁げば苦労はしなくてすむだろう。
 しかし、苦労を厭うようならば彼と共に在る時間に、どうしようという言葉など浮かんでこないはず。
 どうしよう。
 そんな迷いが生まれたのは、自分の居場所は若旦那と共に在るのではない、ということ。
 自分を本来の時間の流れに戻してくれた永倉の元に、それはあるということだと、そう気づいたのだ。
 鈴花の中にはもうゆっくりとした時間は流れない。

「……鈴花……」

 永倉が、そっと口付けをする。
 
「けどよ……。俺、まだ返事もらってねぇんだけど」
「え?」

 怪訝そうに見上げる鈴花に、永倉は笑いかける。
 それは、いつもの笑い方。
 口の端をにやっと上げる、まるでいたずらっ子のような笑い方だった。

 
「……俺と、一緒になるか?」
「……!」

 そう言われ、まだ返事を返していなかった事を思い出す。
 何度も繰り返された言葉であったはずなのに、まだ決定的な答えを出していない。

「鈴花……。俺と、一緒になるか?」

 問いではなく、確認。
 そんな永倉の言葉に、鈴花は顔を上げた。
 
「……はい……!」

 風が、吹く。
 胸の中を風が通り抜ける。
 開け放たれた心の扉を自由に行き来する。
 風の行き先は、誰にもわからない。それが、どちらの方向に吹くのかも。
 もしかしたら、未来かもしれない。過去へ戻るかもしれない。
 しかし、鈴花はその風を怖がることをやめた。
 どんな風が吹こうとも、たとえそれが嵐だとしても、きっと乗り越えられる。
 隣に眠る横顔を見ながらそう、確信したのだった。










終了です。ありがとうございました。

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