夜空に輝く一番の星

 がたり。

 不審な物音に気づき、倫は稽古する手を止めた。
 
 がたり、がたがた……。

 物音は屋根の上から聞こえる。
 今はもう真夜中に近い時間。島原の喧騒も収まり、後るは居続けの客のみといった刻限にこの物音は明らかにおかしい。
 ただ、それが聞こえたのは香久夜楼ではなく貧乏道場の花柳館であるというのが、更におかしいだろう。
 もしも泥棒ならば、とんだ検討違いだ。入ったところで何も取るものもない。
 かといってそのまま無視するわけにもいかず、倫は息を潜めて屋根の上を伺った。
 たとえ物取りではないにしろ、花柳館にはおこうがいる。夜這いを仕掛けようとする不届き者かもしれないという可能性もあるので、放っておくのはまずいだろう。
 
 倫はひらりと軽い身を跳ばし、音もなく屋根へと上がった。
 相手に見つからぬよう体を小さく屈めて近づき、不審者の様子を見た。
 どうも動く様子もなく、花柳館に侵入しようという気配も見受けられない。
 がたがたという物音も止み、不審者が屋根に腰を下ろした姿を見れば、本気でその目的がわからなくなった。
 倫は、そっと身を起こし不審者に近づいた。
 目的が何にせよ、怪しい動きをするものを野放しには出来ない。捕らえることは出来なくても、その顔を見ておかなければ、後々何か会った時に困るだろう。
 しかし、そんな彼女の目に映ったのは、意外すぎる人物の姿だった。

「……陸奥、さん……?」
「うぉ! な、何だよ! おまえいつからそこにいたんだよ!」

 屋根から転げ落ちそうになるその不審者は、陸奥陽之助の姿をしていた。





「……で、本当に何でこんな所にいるんですか?」
 
 屋根から落ちそうになった陸奥を何とか引っ張り上げようやく腰を落ち着けたところで、本題に入ることが出来た。
 近くに来れば陸奥の体から漂う匂いで、彼が酒を飲んでいることがよくわかる。
 島原で飲んでいてその帰りに寄ったのだろうか。――わざわざ、花柳館の屋根に。
 
 訝しむ倫の前で、陸奥は常になく上機嫌だった。酒を飲んでいる為なのは一目瞭然なのだが、それだけではないように思える。
 
「今日は、才谷さんと飲んでたんだ」
「はぁ」
「なんだよ、その反応は」

 気の抜けた返事をする倫に、陸奥は不満そうに眉根を寄せた。
 そうは言われても、この上機嫌の裏に才谷の存在があることは誰にでも予想できることなので仕方がないだろう。
 
「まあいい。それでだな、才谷さんの話はこう言ったんだ。これからの日本の姿について」
「……はぁ……」

 しまった。
 倫は心の中で毒づいた。
 聞くべきではなかった。この話は長くなる。
 倫にとって、才谷や石川それから陸奥のする「日本の未来」の話は難しすぎるものだった。
 予備知識も薄ければ、自分の住む世界を変えていかなければならないと熱弁されても、どう行動して良いかがわからない。
 花柳館でそういった話が出るたびに、もっと勉強しなければと思うのだが如何せんその時間もままならないので、いつまでたっても彼女は蚊帳の外だ。
 
 普段でもわからない話なのに、酔っ払った陸奥の口から出る話は更に難解なものになってしまっている。
 ここに才谷がいれば、倫にもわかるよう砕いて説明してくれるのかもしれないが、ここに彼の姿はない。
 気を遣うということが出来ない陸奥が話す上に、酔っ払って支離滅裂。更に興奮しているからか用いる語彙も普段より更に難しいものとなっていた。
 もう、お手上げだった。

 倫は陸奥に気づかれないようそっと溜息をつき、曖昧に相槌をうつ。
 こういう時の彼は、倫に同意を求めたりはしない。ただ話したいだけなのだ。
 それならば、酔っ払いの戯言と思って我慢して聞いていよう。
 
 心を決め、その話に耳を傾ける。
 やはり話している内容は難解で、彼女にはさっぱりわからない。
 けれど、それを口にする陸奥はいつもより目を輝かせ、いきいきとしていた。
 話の内容はわかないが、彼がどれだけこの国の事を思っているか、そして才谷のことをどれだけ尊敬しているかはよくわかった。
 まるでおいてけぼりを食らったように寂しい気持ちになり、倫は思わず唇を尖らせた。
 けれど、目の前の酔っ払いはそんな事にはちっとも気づかず、喋りたいだけ喋って気が済んだのか大きな伸びをし始めたのだった。

「どうだ、わかったか? 日本は変わる。才谷さんや俺が変えるんだ!」
「……そう、ですね……」

 声も沈んだものになっている倫に構わず、陸奥は空を見上げた。
 島原の街の灯も少なくなった反面、空に浮かぶ星はその輝きを増していた。
 屋根の上から見上げればまるで降ってきそうなその光りに、陸奥は大きく目を見開いた。

「おい、見ろよ! っと、うわ!」
「あ、危ないですよ」

 急に立ち上がった陸奥を、倫は思わず引っ張る。
 お世辞にも運動神経が良いとは言えない上に酔っ払っている陸奥が立ち上がれば、屋根の上から転がり落ちそうになるのは必然だ。
 だが肝を冷やすのは倫だけで、当の本人はけらけらとおかしそうに笑っている。
 この辺は、普段と違っているのでやはり酔っ払いは酔っ払いだろう。
 厄介な。
 倫が深く溜息をつく横で、陸奥はごろりと寝転がった。

「見ろよ、倫。星がキレイだぜ」
「……はぁ……」

 生返事をする倫に、陸奥は自分の横の瓦をぽんぽんと叩いた。
 どうやら、同じように寝転がれということらしい。
 
「もう……明日素面になったら、今日のこと言いますからね。ちゃんと覚えててくださいね」
「あったりまえだろう! 俺が俺のことを忘れるわけねぇ」
 
 酔っ払いは皆そう言うんですよ。
 倫は心の中でそう呟きながら、言われた通り冷たい瓦の上に身を横たえた。
 目を開ければ、満天の星が視界いっぱいに広がっている。

「あれだ」
「え?」
 
 横で、手が伸びる。
 真っ直ぐに空へと伸びた陸奥の手は、一つの星を指差した。

「あの一番大きくて輝いてる星が、才谷さんだ」

 指の先を辿れば、夜空の中に燦然と輝く星がそこにはあった。
 周囲の星を凌駕する光を持ち闇を明るく照らすその星は、確かに才谷のよう。
 倫は思わず唇を噛んだ。
 陸奥の心の中の才谷も、きっとこの星のように陸奥の行く先を照らす光になっているのだろう。
 そこに果たして、自分の輝きはあるのだろうか。
 倫は横に寝転がる陸奥の顔を眺めた。

「で、あっちの少し小さいのが石川さんだな」

 倫の胸中など知らず、陸奥はあちこちの星を指差して人名を並べていく。
 中には、彼女の知らない名前もあるのにもおかまいなしだ。
 一向に自分の名前が出てこないことに焦れ、倫は思わず口を挟んだ。

「私の星はどれですか?」
「あ?」

 緊張した声音になってしまったのに悔いたが、もう遅い。
 口から出た言葉はしっかりと陸奥の耳に届いたらしい。
 目を大きく見開いた陸奥は、あっけらかんと言ってのけた。

「あるわけないだろ、そんな星」
「な……っ!」

 聞き捨てならない言葉に立ち上がりかける倫の手を、陸奥の手が掴んだ。
 ひんやりとした外気に晒されても温かなその手は、思いのほか大きい。
 
「倫が星になったら、手が届かねぇじゃねぇか」
「……え……?」

 掴まれた手に力が入る。
 驚く倫の前で、陸奥はにやりと笑った。

「おまえは、こうして俺の横にいろ。手の届くところにいるんだ」
「陸奥さん……」
「ま、どうしても星になりてぇってんなら、俺が星になる時に一緒に連れていってやるよ」

 掴まれていた手が一瞬離れ、すぐに戻ってくる。
 今度は掴むのではなく、掌に滑り込んできて手を繋ぐ形となった。
 
「……何で陸奥さん、花柳館の屋根にのぼってたんですか……」

 倫は赤くなる頬を自由な片手で押さえ、誤魔化すようにそう問う。
 聞きたかった答えは、期待していた形以上のもので返ってきた。これ以上この話題だと心臓が飛び出てしまいそうだったのだ。

「んー?そうだなぁ。才谷さんと飲んでて色んな話を聞いて……で、帰り道に空を見上げたらこんな星だっただろ? 近くで見たくなるのは当たり前じゃねぇか」
「……で、わざわざ花柳館を選んで上ったんですか?」
「言っただろ。手の届くところにおまえがいるんだってな。見るんだったら、おまえの近くにしようと思ったんだよ」
「……陸奥さん……」

 素面では到底言ってもらえそうにない言葉。
 もしかしたら、明日には忘れてしまっているかもしれない言葉。
 それでも、その言葉は倫の心の奥底に温かなぬくもりを与えてくれた。
 熱くなる胸を押さえ、倫は横を向いた。どんな顔をして彼がそのぬくもりを与えたのかを確かめたかった。

 の、だが。

「……陸奥さん……?」

 目頭を熱くした倫の横で、陸奥は目を閉じていた。

「すー……」

 聞こえるのは、安らかな寝息。
 一体、何時の間に。

「ちょ、ちょっと、陸奥さん、起きてくださいよ! 何でこんな肝心な時に寝ちゃうんですか! 第一、こんな所で寝たら風邪ひいちゃいますよ! 陸奥さん、陸奥さん?」
「……んー……もう食えねぇ……」
「食うって何の話ですか! 星の話じゃなかったんですかっ!陸奥さん!」



 静かになった島原の空に、倫の泣きそうな声が響き渡った。
 それを見下ろすのは無数の星。
 きらきらと瞬きながら、二人の姿を見守っていた。



 陸奥がこの夜の話を覚えているかどうかは、わからない。
 倫にそれを聞く勇気もなく、何故か次の日から不機嫌になっていた花柳館の面々によって、しばらく陸奥が花柳館出入り禁止となった為だった。
 
 いつの日か、聞ける日がきたら聞いてみよう。
 あの夜の話を覚えているのか、と。
 自分も共に星になれているか、と。

 その日は遠くない未来であることを、倫は信じていた。














モドル