妙なる音







「手が……痛い……」

 がたがたと揺れる車の中で、はるはぽつりと呟いた。
 握り締めた右手は硬直したまま動かしにくく、肩も張っていて頭痛すらしてくる。

「馬鹿者。それしきの事で音を上げてどうする、軟弱者め」

 運転席から冷たい叱責が帰ってくるので、はるは仕方なく「申し訳ありません」と全く心にもない謝罪をした。
 しかし、相手――宮ノ杜家の次男は、形ばかりの謝罪でも気にはしていないようだった。
 はるはもう一度盛大な溜息をつき、ちらりと後部座席へと目をやった。
 狭い座席の上に乗せられているのは、胴袋を被せられただけの三味線だった。

「あんなの、弾ける気がしないよ……」

 今度の呟きは、勇に聞こえないように更に音量を小さくした。
 全ての始まりは数日前になる。



「はる、今宵はやす田へ参る。供をせい」
「……はい?」
「何度も言わせるでないわ!」
「へ、は、へっ!」
「へとは何事であるか!」
「はっ!」

 半ば無理やりに、やす田へと連れてこられたのだが、事情がわかっていなかったのは何もはるだけではなく、女将である静子も何も知らされてはいなかったようで、裏口からではなく正面からはるが訪れた事に目を丸くしていた。

「ちょっと、一体何の騒ぎですのん? おはるちゃん、あんたこないな時間に外連れ出されて……」
「し、静子様、お騒がせして申し訳ありません。で、でも、私も何が何だか……」

 慌てるはるの前で、勇は更にとんでもないことを口にした。

「一月後に、父上をここに招待する。それまでに、はるに三味線を仕込め」
「……は?」

 騒ぎを聞きつけて顔を覗かせた茂と紅の前で、勇は堂々と自分の考えた当主への点数稼ぎを披露した。
 曰く、舞踏会ではるとダンスを踊った事で、当主玄一郎は楽しんだようだった。それならば、今度は三味線を玄人のように弾かせることが出来れば、更に楽しめるのではないか、と。
 
「い、一朝一夕で弾けるもんじゃないよ」
「一朝一夕で弾けるように仕込めばよかろう」

 慌てる茂に、勇はこともなさそうに言ってのける。

「む、無茶な……」
「どんな曲ならば簡単なのだ」

 さすがにその辺りの常識はあったようで、難解な曲を弾けとは言わないらしい。はるは少なからず胸を撫で下ろしたが、よくよく考えてみれば、三味線を弾くこと事態が無茶すぎる。

「えーと……まぁ、弾くだけで良ければ黒髪なら簡単だけど」
「馬鹿もん! あんな暗い曲を宴会でされてたまるか」
「あ、兄さんにも曲の明るい暗いがわかるんだ」
「おのれ……っ!」

 ぽろりと出た言葉は、茂の本心だろう。しかし、勇が気色ばんで刀に手をかける前に、彼は曲を探すと言って座敷を飛び出した。
 残されたはるは不安を隠せず、目の前で渋い顔をしている勇を見上げた。

「い、勇様、私……」
「……恥をかくから諦める、か?」
「!」

 舞踏会の前、踊ることを諦めかけていた勇に、はるが投げた言葉だった。
 にやりと笑う勇の目に、はるは逃げられないことを悟る。
 自分は、あまり望まない形の信頼を得てしまったらしい。そしてその信頼は、望んでいなかったものの、失うことも惜しいと思えてしまうのだ。
 そんな自分の感情についていけず、はるはそっと溜息をついた。
 
 その日から、茂による三味線と唄の指導が始まった。
 三味線は素人のはるが持つには重く、弾く姿勢を取るだけでも一苦労だった。それなのに、勇は唄まで唄えと言う。

「当たり前だ。三味線だけなど、地味すぎるではないか」

 静子が眉間の皺を深くするのも気にせず、勇は軽くそう言ってのけた。
 ただ、三味線に比べて唄はまだ何とかなりそうではあった。こんな時に村祭りの喉自慢が役に立つとは思わなかった。

「隣村の民謡好きのおじさん、本当に感謝しています……!」

 唄にあわせ、三味線の譜も変えられることとなった。本来ならば、唄と三味線は重なる事はないのだが、さすがに素人のはるにそれは無茶がすぎるので、唄の高さをそのまま三味線で演奏する。これが半年後に出来上がれば良いというのであれば、何とかなったかもしれないが、期限は一月であり、はるには稽古に当てる時間も少ない。

「大丈夫よ、きっと誰もわかりゃしないんだから」

 静子がいたずらっぽくそう言い、茂も頷く。不安は残るが、はるはこの二人を信じるしか道はなかった。
 一日の仕事で疲れた体に鞭打って、三味線を膝に乗せる。糸巻きを耳の高さにあわせるよう心がけ、撥を糸に重ねた。

「い、痛い……」

 三味線も意外に体力勝負なのだと痛感するはるの前に、勇の運転する車が止められた。
 さすがの暴君も、自分の為に特訓するはるを気遣ってか毎日の送り迎えをしてくれている。
 いつもは自分勝手な言葉ばかりを口にする勇も、帰りの車では何もはるに言おうとはしない。それが返って心地よく、はるは宮ノ杜邸までの短い距離を不思議と安らいだ気持ちで過ごすこととなった。
 後部座席に置かれた、練習用にと貸してもらった花梨の三味線は無言の圧力をかけていたが、それにも耐えられる気がしていた。

 そして約束の一月は、あっという間に過ぎていった。

「うん、何とか形になったねぇ。よく頑張ったよ、おはるちゃん。肉刺もいっぱい作ったもんね。大丈夫、今日は俺が立ち方をするからさ、おはるちゃんの音に合わせてちゃんと踊るから心配しないで」

 ぎりぎりまで稽古に付き合ってくれた、揚羽の衣装を身に纏った茂がにっこりと艶やかに微笑んだ。
 緊張して高まる心臓の音はうるさいぐらいだったが、それでも掌の痛みは少しずつ自信にかわっていっている。

「ほら、おはるちゃん、肩の力を抜いて。今日は私も一緒に弾くんだから、多少間違えても大丈夫よ。でも、堂々と弾かなきゃ駄目。弾き間違いは粋で誤魔化せるけど、勢いがなかったら全てが死んでしまうんだからね」

 紅の、助言とは思えない助言に頷きながら、はるは撥を握り締めた。
 本来ならば、立ち方の紅が地方をするのは不満だろう。それは、普段地方を担当している芸者にも言えることだが、今日ははるの為に紅がわざわざ三味線を弾いてくれるという。
 芸を生業としている人達に混じって、素人の自分が舞台に立つなど、迷惑甚だしいことだろう。それなのに、当の自分が怖気づいて失敗してしまっては目も当てられない。
 はるは、大きく息を吸い込んだ。

「……よし」

 すらりと開いた襖の向こうでは、玄一郎をはじめとした宮ノ杜の面々が待ち構えている。中でも、勇は厳しい顔の中に期待感を膨らませているのが見て取れて、失敗は許されないことをはるに知らせていた。
 
 覚悟を決めつつ頭を下げ、撥を握り締めて顔を上げる。
 揚羽と紅に合図を送り、すっと息を吸い込んだ。
 震えたのは最初の言葉だけで、後はもう覚えていない。
 高まりすぎた緊張感が、はるの神経を全て別の所へと移し変えてしまったかのような錯覚があった。確かに撥を持つ右手は弾み、棹を滑る左手も軽やかに動き、唄も気持ちが良いほど通っていたような気はする。
 しかし、それは全て自分自身から遠く離れたところの出来事であったように思えた。
 
「お、わった……?」

 茂が扇を畳み、頭を下げるのを見届けてから、はるは小さく呟いた。
 それと同時に、ぱんぱんと大きく手を打つ音が聞こえ、その音は段々と増えていき盛大な拍手へと変わっていった。
 目を丸くするはるの前で、玄一郎がその厳しい目をはるの方へと真っ直ぐに向けている。

「うむ、見事なものだった」
「父上、では……」

 率直な誉め言葉に反応したのは、はる本人ではなく首謀者である勇の方だった。
 正の方を見て相好を崩しながら玄一郎の前へと出たが、その笑顔は玄一郎の次の言葉で瓦解する。

「そうだな、本来ならばはるに点数をやらなければならないが、ここは仕込んだ茂に二点をくれてやるとしよう」
「な……! ち、父上!」
「勇は何もしておらぬではないか。なぁ、茂よ」
「は? え、い、いらないよ、父さん!」
 
 からからと豪快に笑う玄一郎に、慌てる揚羽の格好をした茂。その後ろでは青い顔をした勇が刀に手をかけ、進に止められているのが見えた。
 いつも通りであり、いつもより羽目が外れているようにも見える宮ノ杜の面々を見ながら、はるは一気に体の力を抜いた。
 手にはまだ、静子に借りたままだったべっ甲の撥が握られていた。
 最初の頃は掌が開けないほどきつく握っていたのが、今ではすんなりと手が開く。ここまで頑張った自分は一体なんだったのか。

「……私、頑張り損じゃないの……?」
 
 虚しく呟いたはるに、紅が優しく肩を叩いたのだった。