ゆうやけぐも
「ちょっと散歩しようよ」
孔明に誘われたのは、もう日も傾き始めた頃だった。
埋もれていた竹簡の山から顔を出すと、今日初めて息がつけたような感覚に陥る。
この世界に残ると決め、孔明の下で一から勉強をしなおす事にしたは良いが、この国の言葉が読めない花にとってはわからないことが多すぎた。
毎日毎日竹簡に囲まれた生活を送っていると、穴の中で冬眠している熊の気持ちがわかるような気がする。
孔明が伏龍と呼ばれるようになったのも頷けるというものだ。
「散歩、ですか?」
「うん。夕日がきれいだよー」
夕日よりも艶やかな顔でそう言われ、花は考える前に頷いていた。
外へ出ると、確かに孔明の言葉通り太陽が大きな空を焦がして西の空へと帰るところだった。
「この国の空って、広い気がする……」
思わず呟いた言葉に、前を歩く孔明が振り向いた。
「君の国の空は、狭かったの?」
「うーん、空の広さはどこも一緒だと思うんですけど、でもここの空は広がっていてすごくきれいです」
思い浮かべる故郷の空は、建物の間から見る四角い空だった。
ここでは遮るものはほとんどなく、見上げると空に吸い込まれそうな気すらしてくる。
今この時も、夕焼け雲が流れる光景に目が離せない。
「どっちの空が好き?」
「え?」
何気ない言葉に聞こえたが、その響きはいつもと違ったものだった。
視線を地上へ戻すと、前を歩いていたはずの孔明がいつの間にかすぐ傍まで来ていた。
逆光でその表情は見えないが、花の胸は何故かちくりと痛む。
また、何か不安になるようなことを言ったのかもしれない。
飄々として、何を考えているのかわからないところがある孔明だが、その裏で色々気遣ってくれているのはよくわかっていた。
そしてそれは、花の気持ちを無視しても花の為になることを考えていることもあるのだからたまったものではない。
「……師匠……」
手を伸ばし、孔明の服の袖口を握り締める。
こうして掴んでおかないと、心が伝わらないような気がしてならない。
「私、幸せですよ?」
「……うん、知ってるよ」
嘘ばっかり。心の中で小さく笑い、花は逆光で見えない顔に顔を寄せた。
心が伝わるように願った口付けは、触れるだけの小さなもの。
「幸せ、なんですからね」
「うん」
今度は、孔明からの口付けが降って来る。その優しさに胸を撫で下ろしながら、彼の頭越しにもう一度空を見上げた。
茜色の空は優しく二人を包み込んでいる。
「私、この国の空が好きです。大きくて、雄大で」
「そっか……」
今度の答えも、何気ないものだった。それでも、ほっとしたような声音に変わったことを感じ取れるぐらいには、花はこの師匠のことがわかりはじめている。
彼と共にあるために、この空の下で暮らしていくのだから。
「孔明さんも、大好きですからね」
「うん、それは知ってるよ」
今度の答えは、しっかりと確信を持ったものだった。
花は笑いながら、もう一度背伸びをして気持ちの証明を彼の唇に落とした。
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