「はぁ、さっぱりしたぁ」
鈴花は、風呂からあがり上機嫌でそう呟いた。
今日は何をしたわけでもない。
まるきりの非番で、仕事らしいことは一切していない。
それでも風呂に入れば、一日頑張ったような気がしてくるから不思議なものだ。
「あれ?桜庭くん?」
「あ、井上さん。おかえりなさい」
その時、廊下の向こうから声が掛けられた。
見れば、浅葱色の羽織を羽織ったままの井上の姿がそこにあった。
暗い中にも、にこにこと微笑む人のよさそうな顔がよくわかり、鈴花もつられて笑顔を返す。
「巡察だったんですね。お疲れ様です」
「うん、今日は何事もなく終わったんだよ。桜庭くんはお風呂に入っていたの?」
「え?あ、すみません!!」
仕事をしていた井上がまだ埃だらけなのに、非番で何もしていない自分が風呂に入るなど。
鈴花は恥ずかしくなって、思わず大きな声で謝った。
だが、返ってきたのは、くすくすと笑う柔らかい声。
「謝ることないのに。お湯加減はどうだった?」
「え?あ、ちょっと熱いぐらいでした」
「じゃあ、江戸っ子にはちょうどいいぐらいかな?」
わざと茶目っ気を出したその言い方は、明らかに鈴花を思いやってのもの。
鈴花は、風呂に入って暖かくなった体に、温かい言葉がじんわりと染み込んでいくのを感じた。
井上さんは、本当に人を思いやるのが上手だなぁ。
見習わなくては、といつも思うのだ。
鈴花とて、自分の言動が幼いという自覚はしっかりとある。
照姫さまのように、大人の女性になりたい。
土方さんのように、威厳を持ちたい。
だが、なによりも、井上さんのように人を思いやる優しさが欲しい。
そう、思うのだ。
「ほらほら、ちゃんと髪の毛をふかないと風邪ひいちゃうよ」
鈴花がそんなことを考えている間にも、井上は持っていた手拭で髪の毛から落ちる雫を拭い取ってくれる。
髪の毛を傷めないように、そっと扱うその手つきからも、彼の人柄が表れていた。
「今時の風邪はやっかいらしいからね。早く布団に入った方がいいよ。ちゃんと掛け布団も被るんだよ」
あと、寝る前に温かいお茶も飲んだほうがいいからね。
髪の毛の雫を拭いながら、井上はそう続けた。
懐かしいようなくすぐったいような、そんな感覚が鈴花の中に芽生える。
風呂に入った以上に暖かな気分になり、今夜はよく眠れそうな予感すらしてきた。
「ありがとうございます、井上さん」
ぺこりと頭を下げ、自室への襖を開ける。
井上は、優しい笑顔のままで、それを見つめていた。
「……井上さんみたいな人が母上だったら良かったのになぁ」
「え?」
「なんでもないです、おやすみなさい!!」
思わず出てしまった言葉は、心からのもの。
それを隠すように、鈴花は急いで襖を閉めた。
残されたのは、戸惑いの表情を凍らせた、井上の姿。
「は……はは、うえ……?父上でもなく、母上?それって……眼中になさすぎないかい……?」
そんな言葉は、闇に紛れてしまう。
「今日は何だかんだ言って、良い一日だったもしれないなぁ」
鈴花は、充実した非番に満足のため息を残し、眠りについたのだった。
夕方へモドル
書庫へモドル