朧月夜

 漆黒の闇に薄ぼんやりと浮かぶ朧月夜。
 誘われて来るのは、一体誰か。
 手を伸ばせば掴めそうで。
 それでも不意に姿を消す不確かな存在。
 この闇に浮かぶその姿こそが真のものだと信じてしまいたい。




「眠れない…」

 ぼそりと呟いて、鈴花は上半身を起こした。
 理由はわかっている。昼間の転寝と、先ほど飲んだ濃い抹茶。
 非番を怠惰に部屋で過ごし、挙句の果てにうっかり眠ってしまったのも失敗ならば、近藤にせがまれて夜も更けてから抹茶を点てて一緒に飲んでしまったのもまた失敗だった。
 悔やんでも後の祭り。鈴花は、大きな溜息を付いて布団を跳ね除けた。
 からりと襖を開ければ、そこは闇の世界。
 満月も近いというのに、夜を照らす月の姿はぼんやりとした光しか投げかけてはくれない。

「朧月夜か…」

 憂鬱な気分が更に憂鬱になる。
 いっそ、明るいぐらいの月明かりならば良かったのに。
 そんな勝手なことを思いながら、縁側へ出る。
 闇夜よりは少し明るい程度では、歩くのも慎重になってしまう。
 さくさくと落ち葉を踏みながら歩を進めていくと、少しずつ目が慣れてきて周囲の景色も認識出来るようになってきた。
 周りが見えてくると、今まで憂鬱だった朧月も風情のあるものに見えてくるから不思議なものだ。
 鈴花は、ほっと息をついて空を見上げた。
 相変わらず、闇に溶けてしまいそうな月が頼りなげに揺れている。
 その光景に、以前聞いた話が脳裏に蘇ってきた。
 朧月夜の尚侍(ないしのかみ)。雅な話の登場人物。

「…こんな夜にあったら、夢か現実かわからないんじゃないの? だから惹かれたりするんだ」

 頭の中に思い描いていたことが、思わず口をついて出てしまう。
 あっと思ったが、ここは一人。誰からも咎められることはないだろう。
 そう、思い直したのだが。
「…なんの話だ、そりゃ」
 不意に声を掛けられ、鈴花は飛び上がらんばかりに驚いた。叫びださなかったのは自分でも偉いと思う。
 目を向いて声のする方を見れば、そこには確かに人影が存在する。
 この暗さで気づかなかったのか。それとも、目の前の人物がわざと気配を絶っていたのか。

「…なが、くらさん…?」

 恐る恐る名を呼ぶと、暗がりから姿が現れる。確かにそれは、永倉新八の姿だった。
 ぼんやりとした明かりに照らされると、見慣れたはずの彼が違って見えてしまう。

「ああそうか、そういうことなんだ…」
「だから何の話だよ」

 一人納得する鈴花に、永倉は頭を掻いた。先ほどから彼女の言葉がちっとも理解出来ないのだ。
 顔が見えるぐらいまで近づいてきた永倉に、鈴花は小さく笑いかけた。

「この月を見てて、思い出したんです。以前、照姫さまに聞いた話のこと」
「話?」
「源氏物語の、朧月夜の尚侍の話です。…知ってます?」
「…源氏物語、ねぇ…。あー聞いたような気もすっけど、んなこた忘れちまった。確かアレだろ?光源氏が主人公の話だよな。女をとっかえひっかえってやつ」

 実も蓋もないその言葉に、鈴花は苦笑した。
 彼女とて、永倉が源氏物語の細部まで知ってるとは思っていない。話の内容をかろうじて知っているということさえ驚きだ。

「…で?その源氏物語が何だって?」
「源氏物語でね、朧月夜の尚侍と光の君が出会うのがこんな夜だったんですよ。それを思い出したんです。こんな幻想的な中で出会ったら、夢か現かわからないんじゃないのかなって」
「…ほー…。そりゃまた高尚なことを思い描いてたもんだな」

 くくっと喉の奥で笑いながら、永倉は空を見上げる。
 鈴花は、その顔をそっと盗み見る。ぼんやりとした光に縁取られたその輪郭は、見慣れているはずなのに何故か胸を高鳴らせた。
 朧月。古の貴公子を惑わせた怪しの光。鈴花もまた、その不思議な魅力に憑りつかれてしまったのかもしれない。

「…夢か現かわからない、か…」
「永倉さん?」

 そっと名を呼ぶと、永倉はにやりと笑って振り返った。
 その顔に面白がる表情を見つけて、鈴花は思わず警戒する。

「オメーさっき、その源氏物語の話がわかる気がするって言っただろ?」
「…はい…」
「それって、オメーが今同じ気持ちってことじゃねぇのか?」
「……っ!」

 図星を指され、鈴花の顔が見る間に赤くなる。暗い夜で良かった、と心底思った瞬間。
 ぺしっと紅潮した頬を大きな掌が包み込んだ。
 夜風に当たって冷たくなった永倉の手が、鈴花の頬の熱で暖かくなっていく。
 バレてしまう。
 慌てて俯こうとするが、永倉の手がそれを許さない。

「…桜庭…」

 小さな声で呟かれたその名は、甘い響きを帯びていて。
 鈴花の胸はとくんとはねた。
 間近に迫った永倉の顔は、朧月の淡い光を纏いいつもと違って見える。
 真剣な眼差しの中に炎の姿を認めた時。
 鈴花の唇は、温かなものに包まれた。
 
「……っ!」

 自分の唇に、永倉の唇が重なっている。
 それを自覚したのは、熱い舌が鈴花の咥内に侵入してからだった。
 歯列をなぞるように舐め、彼女の舌に絡みつく。
 同時に唾液が流し込まれて、鈴花は思わず音をたてて飲み込んだ。
 甘い、と感じるのはやはりこの現実離れした月夜のせいだろうか。
 
「……ふ……ぅ……」

 息をつく暇が与えられないほどの口付け。
 全てが初めての体験である鈴花は、頭の芯が溶けていくのを感じながら永倉の体にしがみついた。
 そうでもしなければ、このまま崩れ落ちてしまいそうだった。
 永倉は、そんな彼女をきつく抱きしめる。
 背を支え頭をかき抱くと、口付けは更に深いものになっていく。

「なが……く、ら、さん……っ」
「……桜庭……」

 唇が離れたほんの一瞬、名を呼び合う。
 それは、どちらも今まで聞いたことがないほど甘い響きを伴っていた。

「…オメーが悪ぃんだぜ。こんな夜に出てくるから」
「……え……?」

 永倉の舌が、鈴花の柔らかな頬を舐める。
 そのまま滑るように移動すると、冷たくなってしまった耳をそっと食んだ。
 びくりと鈴花の体が跳ね上がるのを楽しむように、熱い息を吹き込んでいく。
 
「夢か現かわからねぇんだろ?」
「永倉さん……っ!」

 揶揄するような言葉も、ただの睦言に変わる。
 永倉の手は、少しずつ鈴花の着物を乱していった。
 
「ちょ、永倉さん、何するんですか…っ」
「どうせなら夢だと思っちまえよ。流されちまえ」
「や、そんなの、無理…」

 肌を滑る手は熱く、さすがにこれが夢だとは思えない。
 いや。
 思いたくない。

「流されろよ。俺のもんになっちまえ」

 耳に直接吹き込まれた言葉で。
 鈴花は、落ちた。

 儚げに揺れる朧月。
 夢か現かわからない不確かな世界。
 自分をからかってばかりいる永倉の、熱い吐息。
 真剣な眼差しと、その奥に燻る炎は果たして幻なのだろうか。
 
 鈴花は、小さくかぶりを振った。
 抱きしめられるこの腕は、本物。
 体中を這う熱い舌も、本物。
 ただ、彼の想いだけが見えてこない。


 
 この闇に浮かぶその姿こそが真のものだと信じてしまいたい。


 時折、耳元で呟かれる言葉が、真実のものであると。



 信じてしまいたかった。














中途半端な話でスイマセン。消化不良な話でスイマセン。
ついでにおまけ編も作ってみました。
後朝。








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