今日の怪我は、擦り傷。手の甲を擦りむき、血が滲んでいた。
 そんなもの、診療所に来るほどのものではないだろうと、松本ならそう言うところだが、手当てをしているのは、鈴花。
 しかも今は、そんな些細な事を考えている余裕すら、なかった。

「……鈴花先生?」
「え? あ、はい?」
 
 考え込みながら、薬を塗る鈴花に声が掛かる。
 思考の海に沈んでいた彼女は、その声で浮上した。
 その表情に、患者である青年は、眉根を寄せた。彼女にそんな顔をさせる理由が、先ほどの来客だということも簡単に想像出来る。

「……鈴花先生……さっきの方は……」
「……昔馴染み、なんですよ……」
 
 苦笑いをする彼女に、青年は少しほっとする。
 昔の恋人、というわけではなさそうだったからだ。
 ならばと、治療を受けていない方の手をぐっと握る。
 今日は、これだけが目的で来たのではない。むしろ、目的があったからこそ、傷を作って来る口実にしたのだ。
 
「鈴花先生……! 話があるんです」
 




「あ~……疲れたぜ~……」
 
 あれから三日、松本が、無事帰宅した。
 いつもの通り、鞄を受け取る鈴花の顔が浮かない表情になっていることは、親代わりの彼はすぐに気づいたのか、表情を曇らせた。

「俺の留守中に、何かあったのか?」
「……はぁ……」
「はぁ、じゃねぇだろ。何だ?」
 
 そうは言われても。
 色々ありすぎて、何から話して良いのかわからない。
 けれど、一番大きな事件だった永倉のことはどうしても、口に出せなかった。

「……あの……呉服問屋の若旦那さん……」
「あ? 西村屋の若旦那がどうかしたのか?……さては」
 
 鈴花には晴天の霹靂だったのだが、松本には予想できていた事らしく、曇った表情はすぐに笑顔へと変わっていった。
   
「求婚、されたか?」
「な、何で知ってるんですか?」

 わからいでか、と松本は笑う。
 彼曰く、いつか言うとは思っていたらしい。
 西村屋は、呉服問屋とはいっても、下町の新しい店だ。きっと、身分家柄は気にしないだろうと踏んでいた。
 それに加え、若旦那の鈴花に対する思い入れは、わざわざ怪我を作ってまで来るのだから相当なものだ。
 遅かれ早かれ、そういう話が出ることは予想できたというのだが、鈴花本人にとっては、寝耳に水だった。

「で、どうするんだ?」
「ど、どうするって……」
「根性は足りんが、優しいヤツだとは思うぜ? 少なくとも、悪いやつじゃあない」
「それはそうなんですけど……」

 鈴花は、困ったように言う。
 嫁に行くことなど夢にも思わなかったのだ。
 体に出来た無数の傷。その最たるものは、まっすぐ上がらない左腕だった。
 そして、元新選組であるという過去。それを悔やんだ事など一度もないが、そんな女を嫁にする男など存在するとは思えない。
 鈴花は、一生をこの診療所で過ごすものだと思っていたのだった。
 
「傷のことは、気にすることじゃねぇ。あの若旦那だって、おめぇの腕の事は気づいてるだろうよ」
「それはそうなんですけど……」
「それにそんな傷作った過去だって、新選組とまでは思わねぇだろうが、何かあったことぐらい想像はついてんだろうよ。その上で求婚してきたんだったら、俺はいいと思うがなぁ」
「……松本先生……」
 
 追い出したいわけじゃないんだと冗談混じりに言う松本に、無理やり笑みを作り鈴花は自室へ下がった。
 女の幸せを感じてもいいんじゃないかという松本の言葉が、胸に染みた。そういう意味なんだろう。
 よくよく考えれば、自分をもらってくれるなど有難い事ではある。
 それにこれが、実の親に言われたならば、素直に嫁がなくてはいけないだろう。いや、世話になっている人から言われたのなら、なおさらの事。
 しかし、松本が鈴花の意見を尊重する形をとってくれているからこそ、悩めるのだ。
 鈴花は、溜息をついた。乗り気になれないのは、元新選組を隠したままで良いのかと思うのと、胸の奥に一人の影があるからだった。
 永倉の赤く染まった耳が、鈴花の脳裏から離れない。


「こ、ここの、お団子は、おいしいんですよ!」
 次の日、鈴花は呉服問屋の若旦那に誘われるがまま、甘味所へ来た。
 もちろん、その裏には松本の勧めもあった。
 嬉しそうな彼の様子に、自然と顔が綻ぶ。
 恋情などそんな気持ちは、まったくない。
 しかし、心が温かくなった。
 胸が焦げるような思いはなくとも、この人となら穏やかな人生が送れるかもしれないと、そう思うのだった。
 
「鈴花先生、どうぞ」
「ありがとうございます」

 差し出された団子を受け取る。
 誰かとこんな風に出かけるのも、外で団子を頬張るのも随分と久しぶりだ。
 そういえば、昔はよくこんな風に団子を食べた。
 自分がおごるときもあったし、逆におごってもらうこともあった。
 それこそ、むりやり誰かに買ってもらったこともあったと、懐かしく思う。
 そこまで考えて、はっとした。何故こんなことを思い出すのか。
 何故、楽しい思い出は新選組に帰依してしまうのか。
 何故、永倉の顔ばかり思い出してしまうのか。
 鈴花は、掌をきつく握った。
 そこにはまだ、あの日の温もりが残っているようで、それを消すかのように強く握った。
 
「鈴花先生?」

 呼ばれて、顔を上げるとそこには、怪訝そうな若旦那の顔がある。
 男前、までとはいかないが、すっきりとした顔立ち。清潔そのものな格好で、もちろん無精ひげなど存在しない。
 あの人とは似ても似つかない顔立ち。

 この人を、好きになる。

 自分に言い聞かせるように、そう心の中で呟いた。









「……よう。どうした?」
 
 意外な来客に、松本は顔を曇らせる。
 いまここに、鈴花がいないのが幸いだった。
 内心の動揺を隠すように、診察中の札を外す。
 中へ通すか、それとも外でメシでも食べるべきかと悩む。
 どちらにしても、外出中の鈴花に鉢合わせる可能性は高い。
 一瞬の迷いの末、松本は客を家に上げた。
 心の底で、西村屋の若旦那に根性をみせろ、と呟いて。


 家に招きいれた客人、それは永倉新八に他ならない。
 松本と会うのは、何年ぶりか。
 鈴花の行方を探しに来て来たのが、すべての戦いが終わってからすぐのことだったので、かなり久しぶりと言えよう。
 あの時すでに、鈴花は診療所にいた。しかし、塞ぎこんでいる鈴花に、永倉を会わせるわけにはいかなかった。
 彼女が負った傷は、心の方が大きかったのだ。
 松本は、新選組という組織を理解している。
 彼らの信念が何たるかそれも理解し、共感もしていたし協力とて惜しまなかった。
 新選組が悪いわけではない。だが剣を握れず、それが故に新選組と最後まで共にいられなかったと負い目のある鈴花には、その存在は毒そのものなのだ。
 その頃の鈴花は、ともすれば命を絶ちかねない危うさがあった。
 患者としての彼女を最優先して、永倉に鈴花が来たことはない、と告げたのだった。
 あれから数年たち、鈴花の傷は癒えてきている。
 もしかしたら、今なら新選組のことを思い出しても、大丈夫なのかもしれない。
 そうすれば、この目の前の男も少しは心が晴れるかもしれないのだが。
 少し、遅かった。鈴花は、新しい人生を歩みだそうとしていて、それを壊すわけにはいかない。
 永倉の存在が、波紋を呼ぶのは目に見えている事。
 彼女を生涯、新選組から解き放つためにも、今二人を会わせることは出来なかった。
 さて、どうしようか。松本は、茶を出しながら考えた。
 しかし、現実はそううまくはいかない。

「……桜庭に……会ったぜ」
「……はぁ?」

 永倉からの先制攻撃で、危うく茶をこぼしかけた。
 確かに、最近鈴花の様子がおかしかった。
 西村屋の若旦那に求婚されたからだろう、と思っていたのだが、れだけではなかったということか。
 
「……で?」
「松本先生が、あいつを隠していた理由は……何となくわかる。それについて、つべこべ言う気もねぇ」

 言いたいのは、やまやまだけどよ。
 直視していたら、文句の一つも転がりそうになるのだろう、永倉は視線をそらした。
 
「わかんなら、何しにきやがった」
「……なぁ、松本先生。桜庭は、本当に新選組を忘れたほうがいいのか?」
「……あ?」
「俺は、忘れねぇ。忘れちゃいけねぇんだ」

 そこまで言うと、永倉は視線を上げた。
 困惑した表情の松本と目が合う。

「俺達新選組が生きた証、俺達が成そうとした事。それを忘れちゃいけねぇんだよ」
「……」

 真剣な表情の永倉。
 言いたい事は、松本とてわかっているが。
 
「……鈴花にも、それを強要すんのか?」
「強要じゃねぇ。だがな、松本先生。ただ、忘れるだけがあいつの為になんのか? 忘れてるっても、心の奥底には新選組の事は残ってっだろ? 見て見ぬフリすんのが、本当にあいつの為になんのか?」
「……」
「俺は、あいつを知ってる。昔の……本来の桜庭を。何年も、見てきたんだ。あいつは……!」
「……なが、くらさん……?」

 永倉の声が更に大きくなった時、開け放ったままだった襖の向こうから、声が掛かった。
 か細い声は、かすかに震えて聞き取りにくい。
 だが、松本と永倉は、その声に、ぎくりと体を強張らせた。

「す、鈴花……」
 
 まだ、夕暮れにもなってねぇぞ、根性ナシが!
 松本は、心の底で毒づいた。
 まさか、こんなに早く帰ってくるとは思わなかったのだ。

「桜庭……今の、聞いてたのか……?」
「あ、あの……私……」
 
 おろおろと、永倉と松本の顔を見比べる鈴花は、どうやらしっかりと聞いてしまったらしい。
 松本は、溜息をついた。
 何もなかったことにして永倉を追い出す、そんなことは、出来なくなってしまったようだ。

「……わかった。おめぇがそう言うんなら、直接鈴花と話をしろ。俺は、席を外す」
「ま、松本先生?」
 
 慌てる鈴花に、松本は小さな子どもにしてやるように頭を撫でた。
 
「その方が、鈴花もすっきりするだろ。だがな、一つ言っとく」
「……松本先生?」
「こいつが、ちょっとでも具合が悪くなったら、そこで話は終めぇだ。いいな、新八」
「……わかった」

 そう言い残し、松本は部屋を出る。
 鈴花は、慌ててその背を追った。

「ま、松本先生!」
「新八としっかり話をしろ。もしかしたら、おめぇの心の病の薬になるかもしれねぇ」
「……え……?」
「じゃあな。俺は飲みにでも行ってくらぁ。しっかり話しをして、答えを出せ。そうすりゃ、嫁に行く気にもなるかもしれねぇだろ」
 
 遠ざかる松本の後姿を途方に暮れた目で、鈴花は見つめる。
 確かに永倉に会っていない時ならば、心に蓋をすることも出来ただろう。
 しかし、現実はそんな甘い世界を続けさせてはくれず、二人は再会を果たしてしまった。
 こんな中途半端な気持ちでは、何も出来やしない。
 それ故の、松本の判断なのだろう。

「……桜庭……」
 
 名を呼ばれて振り返ったその先には、心配そうな、永倉の目があった。
 ああ、こんな目を知っている。
 時には怒り、時には呆れ、時には心配して、でも最後には信頼してくれた、優しい目だった。
 鈴花は、自信の心の奥底にある扉が音をたてて開くのを感じた。
 そこから溢れてくるものは懐かしい思い出ばかりではない。だからこそ、蓋をしめた。
 しかしいつかは、直視しなければいけないものなのだと、心のどこかでそう覚悟していた。
 今が、その時なのかもしれない。
 鈴花自身が、一歩を踏み出す為に開いた扉の向こうから、風が吹く。
 懐かしい匂いのその風を、鈴花は受け入れた。










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