「……この辺?」
鈴花は、持っていた地図をじっと見る。
松本の手で描かれたそれは、果てしなく見づらい。
こんな不器用なのに、よく手術など出来るものだと、呆れを通り越して関心してしまう。
何とか読める通りの名を探し、後は人に尋ねることにした。
松本のヘタクソな絵は、全く当てにならない。
そうして、見つけた家は、小さくも清潔そうな一軒家だった。彼を想像すれば、長屋に住んでいるように思えたのに。
「……こんにちは」
そっと声を掛けるが、返事はない。
せっかく、心を決めて来たというのに、留守だとわかると力が抜けていく。
しかし、ここで素直に帰るのも嫌だった。どこかへ出かけているのなら待ってみようかと思い立ち、戸口に腰を下ろした。
日はまだ高く、仕事に出かけているなら帰宅までは時間がかかるだろう。
彼の不在は、残念でもあるが心のどこかでは安堵していた。
まだ覚悟が決まっていない、という心の現われに溜息を付き、鈴花は抱えた膝に顔を乗せた。
そうしているうちに、緊張が解けた。しばらくするとまた緊張するのだろうが、今はようやく落ち着くことが出来た。
そのとたん、鈴花は睡魔に襲われる。
極度の緊張による疲労と睡眠不足、そして麗かな日差し。
この三つが相まって、かなり眠たくなってきたのだった。
「寝ては、いけない……」
ここは自分の家でも、自分の部屋でもない。他人の家の戸口で、眠りこけるわけにはいかない。
しかし――。
◇
「……」
帰宅した永倉は、信じられない光景を目にする。
自分の家の玄関先で、くぅくぅと寝息をたてて眠る女性の姿。
それは、つい昨日振られたばかりの女で、思わず掛ける言葉を失ってしまった。
妙齢の女性が、こんな所で居眠りなどとは、普通ならば考えられないことだ。
髪も伸び着物をきっちりと着て、仕草にも女らしさが出てきたと思えばこれだ。
刀を持って駆けずり回っていた彼女の片鱗が、そこにはある。
呆れつつも、永倉は胸が熱くなるのを押さえられず、ぎゅっと拳を握った。
焦げるような胸の内、今にも抱き寄せてしまいそうになる腕。
自分は、昨日振られたばかりと、そう心に言い聞かすが想いは止まらない。
「……桜庭……」
思わず呟いたその名にも、ひどく熱がこもってしまった。
そして、その声に反応するかのように、長いまつげがぴくりと動いた。
◇
「……すいません……」
その後、家に通された鈴花は真っ赤になって俯いていた。
まさか、本当に寝入ってしまうとは。
恥ずかしくてたまらなかった。
永倉は、家に入ってから、一言も喋ろうとしない。
それがまた、彼女の失態を物語っているようで、ひどく居心地が悪かった。
「……で?」
「……え……?」
「何か、用だったんじゃねぇのか?」
その声に、鈴花は思わず息をのむ。
昨日の今日で、歓迎されるとは思ってなかったが、いつも乱暴な言葉の端々に優しさが見える彼の声が、ここまで冷たくなるのはやはり悲しく思えた。
しかし、それを表に出すわけにはいかない。今日は、きちんと用をこなさなければならないのだ。
――自分の気持ちに踏ん切りをつけるためにも。
「本を……見せて頂きにきたんです」
「……本?」
「松本先生が、永倉さんは新選組の事を書き記しているって……」
「……ああ……けどよ、そんなたいしたもんじゃないぜ?」
ようやく永倉の声がいつもの調子に戻り、鈴花は安堵の溜息を付き顔を上げた。
まっすぐに、目の前の顔を見る。
「見たいんです……お願い、します……」
本の内容は、昨日話した事と大差ない。
ただ、昨日は彼女が抜けた後の事だけだったが、本には彼女の在籍時のことも書いてある。
それだけの違いだった。
何故、わざわざ昨日の今日で自分の家にまで来たのか。鈴花の真意がわからない。
そっと盗み見ると、鈴花は真剣な表情で文字を追っている。
本を読むのなら、と灯りをつけたのが間違いだった。
ゆっくりと影の出来る室内は、二人きりで閉鎖された空間にいるのだと否応にも意識させられる。
収まっていた感情が再び呼び起こされそうになった。
先ほども、それを押さえるために、ひどく冷たい言い方をしてしまった。
自分の言葉で鈴花が身構えたのがわかったのだが、どうしようもなかった。
ああいう言い方でもしなければ、彼女を押し倒してしまいそうだったのだ。
自分の余裕のなさに、永倉は溜息をついた。
今度は、集中している為か鈴花は気づかない。
昨日の話をした時には涙を流していた彼女だったが、今はただただ真剣に読んでいる。
悲しみの色はそこにはなく、新選組隊士としての清廉な光が宿っていた。
どれくらい、そうしていただろう。
鈴花は本を読みふけり、永倉は物思いに沈んでいた。
それを終わりにしたのは、本を閉じる音。ぱたん、と軽い音がし、二人の沈黙が破れた。
「ありがとうございました」
そう言う鈴花の表情は晴れやかで、ようやくふっきれたのだと、その為にここへ来たのだということを物語っていた。
「……おう」
永倉の顔にも、笑顔が宿った。鈴花が立ち直ったことが、素直に嬉しかった。
目の前に差し出された本を受け取ると、ほんの少し、指先同士が触れた。
そのまま掴み寄せたくなる衝動にかられるのを必死で我慢する。
「……もう遅い、送るぜ」
「え? あ、大丈夫ですよ……!」
誤魔化すようにそう言うと、鈴花はあわてて拒否をする。
きっと彼女は、遠慮しているだけだと冷静な心の底はそう分かっているのだが、荒れ狂う心の表面が違う捉え方をしてしまう。
「……こんな時間に俺なんかと歩いてたら、誤解されるもんな」
「え?」
「……相手って、この前すれ違った患者だろ?……いいヤツそうだな」
「……」
永倉の言葉に、鈴花は黙り込む。
一瞬の沈黙、それは重苦しい空気となり二人の上に圧し掛かる。
「……そうですね、いい人です……」
「そうか……」
沈黙を破った鈴花の言葉。
永倉は、痛む胸を押さえ、そう答えるしかなかった。
自分からけしかけた言葉だが、それ以上は聞きたくない。
だが、彼の気持ちに反し、鈴花は言葉を重ねる。
「いい人、すぎますよ」
「……」
聞きたくねぇと、そう言いかけるが、ふいに暖かくなる背中にその言葉は出口を失った。
心地よい重みが、そこにはある。
そして、そっと腕が回される。
永倉の胸の辺りの着物をぎゅっと掴む、二つの手。
それは、先程掴んでしまいたい衝動にかられた、小さな手。
「……桜庭……?」
「いい人、なんですよ。私に好きな人がいるって分かったら、この話はなかったことにしましょうって……笑って言ってくれる人、なんです……」
「……え?」
「……なかったことに、しちゃいましたよ……?」
ぎゅっと永倉の着物を掴む手に力が入る。
それは微かに震えていて、思わずその手を握り締めた。
「……桜庭……俺は……」
鈴花の言葉は、永倉の頭の中をぐるぐると回っている。一つ一つの言葉は理解出来ても、その意味は理解出来ていない。
まさかという思いが、言葉の理解を拒んでいるのかもしれなかった。
着物を掴んでいる小さな手を解くと、とたんに鈴花の顔は暗くなった。
それがあまりに悲しそうなものだったので、永倉の胸は熱くなる。
期待しても、良いのだろうか。
はやる気持ちを押さえ、解いた手を握り締めてそのまま自分の方へと引き寄せた。
「……俺は、自分の都合のいいように解釈しちまっていいのか……?」
呟いた声は、自分らしからぬ弱い言葉となってしまった。
溢れ出しそうな激情を必死で押し殺し、鈴花の答えを待つ。
もしこれで違っていたら、今度こそ自分は立ち直れない。
そんな気持ちが手に宿り、永倉の意思とは反対に彼の手は鈴花の頬を柔らかく包んだ。
視線を固定された彼女は到底動けず、頷く事もままならないだろう。
違うと、横に首を振られてしまうのがひどく怖かった。
しかし懐疑的な永倉の前で、鈴花は花が綻ぶように優しく笑い、そっと目を閉じた。
それは、頷く仕草よりも言葉よりも雄弁に、永倉への想いを語っていた。
「……鈴花……」
切なく名を呼ぶと、心の堰に亀裂が入ったのを感じる。その隙間から、愛しいと思う気持ちが流れ出す。
伺うように、そっと唇を重ねると、微かに触れたそこは小さく震えていた。
どちらがそうなっていたのか、あるいは両方震えていたのか、それはわからない。
しかし、抱いている気持ちは同じだという事をその震えから感じ取った。
軽く触れるだけの口付けを繰り返すが、唇を離すと寂しくて再び、唇を合わせる。
角度を変え、何度も何度も。
そうしているうちに苦しくなったのか、腕の中の鈴花が空気を求めるように息をついた。
その隙を見逃さず、永倉は自身の舌を彼女の咥内へと滑り込ませる。
「……ん……!」
鈴花の逃げる舌を捕らえ、絡ませる。
そのまま舌を吸うと、頭の中が甘く痺れて来るのを感じる。熱い舌は口腔内を往復し、次第に二人の吐息を荒くさせていった。
「……は……」
ようやく、唇が離れた時、鈴花は永倉の着物を掴んでいなければ、立っていられない状態になっていた。
「……鈴花……」
「なが、くらさん……」
「すずか……」
名を呼びながら、再び唇を落とす。
額に目尻に頬に、そして、耳に。
「……あ……!」
熱の篭った吐息が、耳の中に吹き込むと、鈴花の背が僅かに反った。その反応に気を良くし、耳たぶを甘噛みすれば彼女の体は小さい震えを繰り返す。
崩れ落ちそうな体を支えて、永倉はそこへ囁いた。
「……俺と、一緒になってくれるか……?」
閑話あり。大人部屋にあります。読まなくても話は変わりません。
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